議論に自分から負けられるという美しさ

競争社会の中で、我々はいつも勝つことを強調される。学生時代の勉強や部活から始まり、社会人になっても、仕事の中で勝たなければならない場面は多い。

特にランキングが好きで、比較によって自分の立ち位置を決めることが多い日本では、自分は周りに勝っているのかを多くの人が気にしている。

それほどに勝つことの重要性は突きつけられるが、一方負けることに価値があることはあまり教えられないように思う。

人間関係を中心とした日常では、勝つことよりも負けることの方が重要な場面も多く、負けることがとても美しい場合さえある。その辺りを少しでも多くの人に感じてもらいたい。

競技における勝ち負け

競争自体が目的の競技性のあるモノに関しては、基本的に勝つこと自体に大きな価値があるし、負けて見える景色があるとは言え、勝ちにフォーカスするのが当然だと思われる。

負けることに価値があるという内容に触れるからといって、競技性のあるモノに対して勝つことが無意味だなどというつもりは全くない。むしろその場合は、貪欲に勝利を目指すスタイルが美しいとさえ思う。

今回言及する勝ち負けの話は、少なくとも競技とは別の次元の話だ。

議論における勝ち負け

本題は、日常における議論や話し合いの中での勝ち負けについてだ。

お互いの意見がぶつかり、収拾がつかない状況になり始めると、双方が自分の正しさを主張し始めるようになる。

この状況でも、多くの人は自分の正しさや正当性を主張し、ディベートのように正論を持って、相手の主張を崩そうとする。感情的になりどちらも譲らないままエスカレートすると喧嘩に発展することもあるだろう。

そこまでして、相手を言い負かして自分が勝つことにこだわるのは、あまり美しくないと私は思う。その勝負に勝っても、相手に傷を残してしまうことが多いからだ。

そういう場合には、かえってグッドルーザーになってしまうのが美しい。議論がこじれたり、相手がもはや感情的なっている時に、こちらから相手の意見を積極的に受け入れたり、話が噛み合わないことに対して謝ってしまうのだ。

その際、論理的には自分がどう考えても正しいと分かっている場合でも進んで負けたらいいと思う。自分の意見を無理矢理押し通すことよりも、お互いが感情的に落ち着きを取り戻すことの方が関係性にとっては有益だからだ。

誰しも経験があるように、コミュニケーションが気まずくなり感情的になってきたら、正しいか正しくないかの客観的な議論ではなく、相手を言い負かし自分の正当性を求める言わば殴り合いになる。殴り合った場合は当然傷が残る。

Twitterなどはこの手の殴り合いが頻発しているが、もっと自分の非を認めるという美徳が広まったら…といつも思う。人間誰しも間違ったり失敗したりするのだから。

それを回避するために、自分から先んじて負けられるというのは、とても美しい在り方だと思う。細かい誤解は後で落ち着いてから冷静に解いてしまえばいいのだ。

負けるという行為がもたらす最大のメリット

この負けるという行為、とてつもなく自分の器が問われる。子供の喧嘩を観察すると、お互いが原因は相手にあり自分のせいではないと親に説明する。そのためなら多少嘘をつくこともある。

残念ながらその構図は大人になっても持ち越されるが、自分の非を認めたり、自分から負けられるようになるということは、その過程で自分の成長を実感することでもある。周りから見ても、そのような人を人格的だと認識するはずだ。

しかし、こういう疑問を抱く人がいるだろう。

習慣的に自分から負けることによって、相手が勝ち誇り、かえって相手の独善的な部分が増長されるのではないかと。

その指摘はとても正しいと思う。間違いなく、自分から負けることで逆に傲慢な態度を取ってくる人は存在する。

私は、そういう人と親密になること自体を諦めた方が良いと思っている。そういう感性を持っている人は根本的に攻撃性が強く、優越感や劣等感に支配されているからだ。

それとは反対に、こちらが負けることで、申し訳なさそうにして反省してくる人もいる。その人は、こちらが自分から負けたという意味を悟り、勝手に反省してくれると共に、大人な対応をしてくれたこちらを信頼するようになる。

そういう人は比較的良心的な人で、最終的には自分の非を認められる人だ。

つまり、こちらが先に負けることで、相手が勝ち誇る人かそれとも相手も負けを認めてくれる人なのか見分けることができるのだ。

言うまでもないが、プライベートのパートナーや友人としては、負けられる人と付き合うのが精神衛生上圧倒的にオススメだ。自分が負けられるようになればなるほど、その辺りの判断も容易につくようになってくる。

負けるという優雅な選択

自ら負けるというのは、勝ちにこだわる人からすると妥協した弱々しい選択のように見えるだろうが、実際はその逆だ。

自分から負けるためには、自分のプライドは捨てなければいけないし、柔軟に自分を変化させる必要がある。一時的な不利益を被ることもあるだろう。どちらかというと、自分の中にある信念がないとできないことなのだ。

マウントを取り合い、正論で論破して傷つけ合うことに辟易している人は、負けるが勝ちという大人な選択肢を取り合える仲間を探してみてはいかがだろうか。

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ABOUTこの記事をかいた人

IQ155オーバーだが、自信があるのはEQ(心の知能指数)の方で、繊細な感受性の持ち主。 大学時代に週末はあらゆる大学生と人生を語り合うことに費やした結果、人を見下していた尖り切った人生から、人の感情を共感し理解する相談役の人生へとコペルニクス的転回を果たす。 これからの時代は感情の時代になると確信しており、感情のあり方が幸せに直結するとの考えから、複雑な感情の流れを論理的に整理することに挑戦している。 モットーは Make the invisible visible 詳しい自己紹介はこちら