”You will never reach your destination if you stop and throw stones at every dog that barks.”
(あなたが吠える犬を見るたびに立ち止まって石を投げつけるのであれば、いつまで経っても目的地にはたどり着けない)
という言葉を残したのは、イギリスの首相を務めたウィンストン・チャーチル。
その言葉の意味は十分に理解できるのだが、残念ながら我々はテレビでもSNSでも現実の生活でも石を投げつけあって生きている。
事実として、有名人だろうが一般人だろうが、この国では毎日平均して50人以上自殺している。交通事故で亡くなるのが平均6人程度であるにもかかわらず。
先日、女子プロレスラーの木村花さんが誹謗中傷に深く傷つき自ら命を断つという痛ましい出来事があった。しかしそれでも、悲しいことに氷山の一角なのだ。
目的地はどこなのか
先に引用したチャーチルの言葉に「目的地」という表現があった。
明確な目的地があれば、多少うるさい犬に構っていられないというのはわかるのだが、それならば目的地が明確でない人はどうなるのだろうか。
チャーチル首相の頃のように第二次大戦に勝利して平和を取り戻そうとしていた時代、戦争が終わり、復旧と共に科学的な新しい暮らしが次々とアップデートされ、豊かさを実感していった高度経済成長時代、こういった時代であればまだ目的地が見えそうにも思える。
しかし、今日のように多様性が場を支配し、混沌とした中でわかりやすい一つの理想の物語が亡くなった今、目的地を描いている人は極めて少ないのではないだろうか。
自分の中の目的地が曖昧ならば、自分の現在位置と周りの位置を比べながら、自分が相対的に裕福であること、自分が相対的に幸せであることを確認して人は安心しようとする。そのためには、自分より優位にある人を妬む気持ちを解消するために、あるいは自分より劣っている人を攻撃して優越感を得るために、石が用いられる。
中には、自分が間違っていると思う人に石を投げること自体が目的地になっている人もいる。他人を攻撃することで悦に浸る、自分絶対正義マンという歪な幸福な形を求めている人だ。
石を投げるために生まれてきたのか
我々はもう一度考え直さなければいけないのではないかと思う。「私は誰かに石を投げるために生まれてきたのか」と。
そして、自分が誰かに石を投げようとする感情を自覚しなければならないと思う。この感情に付き合っていても、長期的には自分の幸せとは結びつかない。
石を投げたい感情は、自覚の有無にかかわらず結果的に誰かを傷つける可能性が高い。
そして、石を投げたい感情を放置すれば、同じく誰かに石を投げたい人と意気投合するだろう。誰かに対する愚痴の共有は驚く程に人を親密にする。
逆に、投石したくない人は投石が好きな人と仲良くなりたくはないのだ。ただ、そういう人は多くはないかもしれない。
かくして、投石が好きな人同士で親密になったり家族になれば悲劇が起こる。お互いがぶつかったときに、相手が間違っているので相手が変わらないといけないという発想しかできないのだ。
石を投げたい感情を放置して人生を生きれば、残念ながら破滅に向かう可能性が高いと思う。爆弾を抱えて生きているようなものだからだ。
相手を変えなければ気が済まない病
先日、とあるドラマを見ているとこんなシーンがあった。
夢を追いかける主人公に対し、母親と弟がそれぞれの観点から引き留めるための説得を感情的に行った。意気消沈して夢を諦めた主人公を、その恋人が叱り付けるように説得し、夢を追いなさいと激励。それに応えない主人公に対し、今度は主人公の友人が現れ、恋人の言うことをなぜ受け入れないのかとこれまた感情的に説得するという内容だった。
主人公が色んな人間の板挟みになり、複雑な心境を通過することに感情移入し、ハラハラするのはわかるし、そのための演出であることはわかる。
また、時代設定が100年前のため、親の言うことが現代よりもはるかに大きな力を持っていたこと、お節介でもこうしなさいああしなさいということが普通だったこともわかる。
でも、そうやって人を変えるために感情的に圧力をかけるのは、もう現代では終わりにしても良いのではないだろうか。
自分が投石をしない人間になるのであれば、それは大きな成長だ。人に石を投げてその人がどうリアクションしようとも、自分自身は目的地に進んでいないが、自分が投石しなくなることは、成長という観点から見れば自分の目的地に向かって前進していると考えることができる。
誰かに投げる石を常に握っている人生から、石から解放されて自分の成長のために自由に手を使える人生へと路線変更したいところだ。そうでなければ、誰も幸せにならない。最近の空気感は特に怖いと感じている。
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