つい先月、世界的な経済誌であるForbesが「あなたのビジネスと人生を変える4冊」に「嫌われる勇気」を選んだ。(1)(2)
少なくとも多くの人がタイトルだけは知っているであろうこの本は、アドラー心理学の骨子を対話形式でわかりやすく解説していく内容になっている。それが最近、世界的な評価を受けたわけだ。
非常に切れ味のあるタイトルなので、周りから好かれようと人の目ばかりを気にする人生から脱却するという日本人受けしそうな内容なのかと考えがちだが、当時私が読んで一番驚いた内容は「目的論」という価値観だった。
原因論と目的論
本書の中に登場する青年の友人は、もう何年も自室に引きこもっている。外に出て仕事をしたいと考えてはいるが、そうしようとすると神経症的な発作が起こり変わることができない。青年は、友人がそうなったのには原因があり、おそらく家庭環境によるものだろうと考えている。
これは誰にでも馴染みのある「原因論」的な立場だ。過去の原因が現在の結果に連結されている。
それに対し、アドラー心理学を信じる哲人が反論する。過去の出来事が現在の私を規定しているのであれば、すべての家庭環境に恵まれない人に問題が起きているはずだ。でも実際はそんなことはない。青年の友人は「不安だから、外に出れらない」のではなく「外に出たくないから、不安という感情を作り出している」と。
これは「目的論」と呼ばれ、トラウマなどを明確に否定する。今の自分は過去の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自ら決定するという。
過去にショッキングな出来事があったとしても、そのおかげで今の自分があると意味づけする人もいれば、その出来事のせいで自分はダメになったと捉える人もいる。
問題は「出来事そのもの」ではなく、その人が今どういう「感情的な目的」を持っているかがすべてだというわけだ。
これを読みながら最初の印象は、いくら何でも無茶な発想だということだった。一理あるとはいえ、原因と結果、因果律を否定するのは現実的じゃないと思ったからだ。
因果という正しさ
因果律が当たり前だということを考えてみよう。
例えば、今年メジャーリーグで驚異的な大活躍を見せている大谷翔平選手。彼はウィキペディアによると身長193cm体重95Kgで、打っても投げても走っても超一流の記録を叩き出す、歴史上初とも言えるプレーヤーだ。
さて、彼のご両親について想像してみてほしい。お父さんは165cmで小太り、スポーツ経験なし。お母さんは155cmの細身で同じくスポーツ経験なし。はたしてあなたは信じられるだろうか?
私を含む多くの人は信じられないだろう。実際に調べてみたところ、お父さんは182cmで元社会人野球の選手、お母さんは170cmで全国レベルのバトミントン選手だったそう。
納得の結果だ。これこそが因果律。運動神経が良く、体格に恵まれたご両親から生まれたから本人もアスリートなのだ。体格に限らず、病気や歯の形、感情的な特性に至るまで我々は間違いなく血統的な影響を受けている。
競走馬は1歳でセリにかけられるようになるが、歴代最高額がどれくらいかご存じだろうか?たった1歳の何の実績も将来の保証もない馬に払われた額だ。
正解は6億3000万円。競馬に詳しくない人からすると信じられないような金額だが、ここまでの額になる理由はシンプルにいえば一言で済む。良血だからだ。
例えばセリの歴代高額馬のベスト10に入っている馬のうち5頭の父親はディープインパクトという日本競馬史上最も有名な馬だ。これだけの高額が動くシビアな判定に際しても「良い血統だから速い」、言い換えれば、原因と結果という論理は何よりも重要視されているわけだ。
人間社会でも最近では「親ガチャ」という単語まで耳にする。子供の立場からは親が選べず完全に運任せなことを、ソーシャルゲームのガチャになぞらえた表現だ。
もちろん倫理的にこの言葉が美しいのかということに関しては、賛否両論あるだろうが、こんな言葉が出てくるくらいには親や家庭環境が自分の人生を大きく左右することを誰もが認識している。
話をアドラー心理学に戻そう。家庭環境がトラウマとなって現在も大変な状況が続いているとするのは、やはり自然な論理ではないのだろうか?
私はその点に関しては、アドラー心理学に初めて出会った頃から今に至るまで考えは全く変わっていない。原因論は間違ってはいない。
だが、昔と考えが違うとすれば次の一点だ。
目的論も間違ってはいない。
原因論の無限ループ
人生相談を受けるようになって理解したのは、意外にも「問題の原因が明らかになったからといって人は解決には向かわない」ということだった。
そしてそれは問題が現在ではなく過去にある場合に顕著だ。
例えば、最近知り合った人物が、自分とあまり価値観が合わず、お互いにいい影響を与えないと感じた場合はどうするだろうか。おそらく多くの人がその人と少し距離を置くことを考えるだろう。その人と接する時間が減れば、ストレスも減っていく。問題の原因に対して的確に対処している。
だが、過去に自分と接した人物が自分に悪影響を与えたと考えている場合、人は合理的な正解になかなかたどり着けない。非常にセンシティブだが例えば毒親問題などが顕著だ。親との過去に感情的には距離を置かなければ問題が解決されなくても、人はいつまでも過去にしがみついてしまう。
もちろん、親が自分に悪影響を与えたことは原因論の観点から見て正しいと思う。しかし、親ゆえに現在や未来の自分もダメだと考え続ける態度は完全に目的論だ。つまり、親のせいで自分はダメだと思いたい、それが目的になっている。
身近に、毒親問題で悩み続けてきた女性がいる。現在ほとんど親と絶縁状態になってはいるが、聞けば聞くほど彼女の境遇はかわいそうだと思う。
しかし、彼女が親に対する不満を言い出した場合、私はあえてそこにあまり共感しないようにしている。共感すればするほど、彼女は今のうまくいかない自分を正当化する方向に論理を展開するからだ。そう、もはや今の自分がダメなのは親のせいだと思って安心したり納得することが目的になっており、これがおそらくアドラーが見てきた景色なのだと思う。
親のせいにしたい感情は痛いほどわかる。私は彼女を非難したいのではない。しかし、彼女の未来の成功は「親のせいにしたい感情と距離を置く」ことにあるとわかっていて、親を責める感情に共感して増幅させたところで彼女は幸せにならないということがわかるゆえに複雑なのだ。
もちろん今の彼女が悩みを抱えている原因が親にあるのは否定のしようがない。そこまでは原因論は正しい。ただし、自分の困難を感情的に過去に置き続けようとするならば、目的論も正しいと言わざるを得ない。
最近彼女が心理学を勉強してカウンセリングを始めるのはどうだろうかと提案してきた。
その動機をなんとなく感じ取ってしまった私は「その理由が困っている人を助けたいとかならいいけど、自分の過去の境遇を理解したいとかならやめた方がいい」と答えた。
彼女は言葉に詰まった。何よりもわかりやすい返答だった。
最初に「嫌われる勇気」を読んだ時には全く理解できなかった「目的論」は毒親問題に限らず、困難な状況を経験した人とじっくり会話するとすぐに顔を出す。
実は、私自身も例外ではない。自分が一番人生で困難だった時は、恥ずかしながら自分がうまくいかない理由を探すことで精一杯だった。その思考から抜け出すことができなかった。
しかし、その当時から好転した現在になって思うのは、私がうまくいかなかった理由は2点。1点目は実際に過去に複雑なことがあったから。そして、もう1点はその過去に固執して自分を正当化し続けたから。
つまり、原因論も目的論も正しく、これは二者択一ではなかったのだ。
今にして思えば、アドラー心理学に当時疑問を抱いたのは、目的論への違和感ではなく、原因論と目的論のどちらかが正しいとする見せ方のせいだったのかもしれない。
灰色の選択
過去に難しい経験をして前に進めなくなっている人を話すのはいつだって繊細だ。
「あなたが前に進めないのは間違いなく過去が原因だ。よく理解できるよ。」と言えば、相手はその思考にしがみついて過去を切り離して前に進めなくなるかもしれない。
「あなたは問題の原因を過去のせいにしているが、同じような境遇から乗り越えた人もいる。あなたは現在の努力を曖昧にして自己正当化しているだけだ。」と言えば、たとえ正論だとしても相手を深く傷つける可能性があるだろう。
相手の過去の困難に対しては一定の理解を示しながらも、過去と今を切り離す方向へ激励していくのはカウンセリングにおいて本当に力量が問われる作業だと思う。
そしてそれはおそらく自分自身に対してもそうだ。過去が現在や未来に与えている影響を理解しつつも、今できることをやろうとしているかどうかは自問自答しなければならない。できない理由を探す方が楽だとしても。
私が個人的にニーチェやショーペンハウアーの思想がどうしても好きになれない理由はその辺りにある。ペシミストは自身の暗い境遇を正当化する方向に論理を組み立てている気がしてならないのだ。大変な思いをしたのだろうと同情はするが…。
とは言え、深い傷を負っている場合にはそんなに簡単に合理的に行動できるわけでもない。こういう0か1かで割り切れず表現もできないところが人間の感情の面白いところなのだと、再度注目されている「嫌われる勇気」に思いを馳せる今日この頃だ。
参考・引用
(1)https://www.forbes.com/sites/jodiecook/2021/08/23/the-4-books-that-will-change-your-business-and-life/?sh=72c5789d60e4
(2)岸見一郎、古賀史健『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』ダイヤモンド社、2013年
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