組織の中で政治的にうまく立ち回り、上から気に入られるのが圧倒的に上手な人間がいる。
アメリカの社会心理学者エーリッヒ・フロムは、彼らのことを「権威主義的なパーソナリティ」と呼んだ。権威ある者に対する服従と、弱者に対する攻撃性をあわせ持つというこのパーソナリティは、組織の中にいくらでも発見することができる。
そして、権威ある者に気に入られた人物が次の権威ある者に成り代わっていくという組織の力学上、権威主義的な性格の人は出世しやすい。
しかし、権威主義的な性格の人間になる大きな原因は、真っ直ぐな愛情を受けてきていないことだと私は考えている。
つまり、真っ直ぐな愛情を受けていない(育ちが悪い)方が社会人としては組織に適合しやすくなるという、なんとも不思議な結果になる。
今日はその辺りを深掘りしてみたい。
愛情のカタチ
今年読んだ中で非常に面白かった本に『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』がある。(1)
贈与論を扱うその本の中で、筆者は大きく分けると2種類のギブの形があることを示した。
1つ目は純粋な「贈与」。信頼に基づいた家族の中での愛情や、親しい人間関係の中に見られるものだ。個人的な解釈をしてしまえば、損得勘定や見返りを抜きにした無条件な愛情の形というニュアンスを感じる。
それに対してもう一方は、「交換の論理」と本書の中で表現されているギブの形だ。こちらは等価交換を前提とした形態で、市場経済のように、お金を払うことでその価値に見合った商品を手に入れるという、私も与えるからあなたも下さいといった感覚のものだ。
前者と違って、割に合うかということが前提なため、打算的になりやすい反面、目に見える公平性を重視している。ギブアンドテイクという言葉に近いだろうか。
本書の面白いのは、人間関係も贈与的な関係と交換的な関係があると指摘しているところだ。該当部分を引用したい。
交換の論理は「差し出すもの」とその「見返り」が等価であるようなやり取りを志向し、貸し借り無しのフラットな関係を求めます。ですから、交換の論理を生きる人は打算的にならざるを得ません。
それゆえ、交換の論理を生きる人間は、他人を「手段」として扱ってしまいます。
そして、彼らの言動や行為には「お前の代わりは他にいくらでもいる」というメッセージが透けて見えます。なぜなら、この〈私〉はあくまでも利益という目的に対する手段でしかないからです。
だから信頼できないのです。
つまり、贈与が無くなった世界(交換が支配的な社会)には、信頼関係が存在しない。
裏を返せば、信頼は贈与の中からしか生じないということです。
だとすると、交換的な人間関係しか構築してこなかった人は、そのあとどうなるのか?
周囲に贈与的な人がおらず、また自分自身が贈与主体でない場合、僕らは簡単に孤立してしまいます。
僕らが仕事を失うことを恐れるのは、経済的な理由だけではありません。
仕事を失うことがそのまま他者とのつながりの喪失を意味するがゆえに恐れるのです。
仕事を失い、かつ頼れる家族や友人知人などがいない場合、僕らは簡単に孤立する。
親の愛情は贈与か交換の論理か
贈与と交換の論理を紹介したが、ここで1つ問いたいことがある。
親が子どもに与える愛情は果たしてどちらの性質のものだろうか?
この質問はおそらく、誰に問うかで大きく意味を変える。親の立場を経験している人たちに問えば、ほとんど全ての人が、自分の子どもに対する愛情の性質は「贈与」であって「交換の論理」ではないと答えるだろう。
つまり、見返りを求めるような条件付きの愛情ではなく、無条件に尽くす愛情だと。
しかし、多くの学生たちにカウンセリングをしてきて気づいたのは、子どもは必ずしも親からの愛情が贈与だと思っていないということだった。
むしろ、親からの愛情が真の意味で純粋な贈与だと経験的に感じている子どもはかなり少ない。
子どもの感覚からすると、親から愛されるには条件が必要だ。「良い子である」という決定的な条件が。
「良い子」と認定される条件が、ある家庭では勉強をすることだし、別の家庭では特定の職業に就くことだ。厳しい家庭の場合、親の言うことを絶対的に聞くという条件も存在する。親に対して反抗的でないという条件はほとんどの家庭に備わっていそうだ。
子どもにとって愛情は必要不可欠なもの。なんとか愛され認められようとする子どもは、当然ながら「良い子」であろうと躍起になる。本当は勉強なんかしたくなくても、本当は親の言うことなんか聞きたくなくても、愛されないというのは子どもにとって耐えがたい恐怖だ。
まてまて。こんなことを書くと、親の立場としては、子どものためを思って良い子になるように躾けるのではないかと全国の親御さんから怒られそうだ。
もちろん、その通りだ。親が子どもに「こうあって欲しい」という様々な条件を提示する動機は、子どもの幸せのためであることが多いだろう。もちろん、そうでない不純な動機もちらほら見かけるとはいえ。
だが、親自身が無条件の贈与のつもりで子どもに対したとしても、それが贈与と交換の論理のどちらなのかを解釈するのは受け手である子どもの方なのだ。
理解を深めるために、日本で古くから使われてきたある言葉について考えてみよう。
「お前のためを思って言っているんだ!」という言葉に強い欺瞞性を感じる人は多い。
ポイントは2つ。
1つは本当は自分のためを思っていっているのではなく、感情を抑えきれずに自分にぶつけているだけではないのかという動機に対する不信感。
そしてもう1つは、自分のために言ってくれていたとしても、それが本当に自分のためになったと判断するのは最終的に言った側ではなく、言われた側だという点。言われたその場においても、時間が経ってからも、あれは自分のためにならなかったと感じることは多い。
かくして「お前のためを思って言っているんだ!」という言葉は自己満足的な呪いだと多くの人が感じている。
これと全く同じように、親が子供に課す「良い子」という条件は、必ずしも子供のためになるわけではなく、かえって子供にとって呪いとなることがある。不幸にも、親が自覚しない形で。
子供からすると、親の言う通りにしないと愛されないから良い子にするという強い自覚は、完全に交換の論理に基づくものだ。良い子であるから愛される。良い子であることで親の愛情を交換している。
結局大切なのは、愛情が贈与と交換の論理どちらに基づくものなのかを判断するのは、究極的には受け手である子供の方だということだ。
そして、親の愛を贈与と捉える子も、交換の論理と捉える子も、両方存在する。
愛情の質から生まれる権威主義
それではその2種類の愛情の質が子供にどのような変化を及ぼすだろうか。
交換の論理のように、愛されるためには条件が必要だという感覚のもと育ってきた人は、当然ながら「何が愛されるための条件なのか」という視点で先生や先輩や上司を自然に見るようになる。
彼らにとっては、気に入られるには条件があり、それを家庭の中で敏感に察知してきた実感があるからこそ、学校や職場などの社会的な環境においても、その条件をすぐに見抜くことができるし、愛される自分を作り出すことが比較的容易だ。
打算的だと罵る必要はない。彼らにとって気に入られる自分を演じることは、家庭環境からの延長線上で、愛情を獲得するための生存戦略だったのだ。
逆に言うと、親や先生の願う条件に合致しないのに愛情がもらえるということが、彼らにはピンとこない場合がある。愛情とは無条件のものではなく、自分の態度と交換に与えられるものなのだという世界観に生きている以上、そうでない世界をイメージするのは非常に難しい。
かくして、彼らは悪気もなく、実に自然な形で権威主義的になっていく。認められるために。愛されるために。
逆に、親からの愛情を贈与だと感じてきた子供はどうなるのだろうか。
彼らも悪いことをして親から怒られたり、兄弟喧嘩をして親を悲しませるようなこともあっただろうが、「どんな自分であっても親から自分は愛されている」という親の愛は無条件だという実感を持っている。
そういう環境で育った場合、先生や先輩、上司から、気に入られるために自分を作り上げようとする感性がとても乏しく育つ。どんな自分でも親から受け入れて愛してもらえた実感があるが故に、自分が気に入られるための条件を上の人の雰囲気を見ながら探すという感覚がとても弱いのだ。
そういう意味では、権威主義的になりにくいと言えるかもしれない。
さて、この2種類の違いを見ていくと、多くの人が交換の論理ではなく贈与的な愛情の中でアイデンティティを育まれてきた子供の方がきっと幸せなはずだと認識することと思う。私もそう思いたい。
しかし、話はそんなに簡単ではない。
交換の論理に支配された社会
考えてみると、社会における組織はほとんど交換の論理で成り立っている。
就活をするならば、あなたは商品として見られ、その企業にとって役に立つか立たないかという目線でしか見られなくなる。労働力と賃金の交換だ。
会社に入れば、上司にとってあなたは、会社の何らか目的を果たすための手段だ。役に立たなければ変わりはいるし、無条件の愛情を持ってあなたに贈与しようとする上司は稀だろう。
そういう環境では「上の人たちに気に入られる条件を探す」という嗅覚が、成功や評価に直結する。逆にいうと、その感性が弱いと自然と潰されやすくなる。
つまり、その感性を幼い頃から磨いた「交換の論理」の中で生きてきた人の方が圧倒的に組織内でうまく立ち回り、上からいかに気に入られるかをあまり意識したことがない「贈与」の世界観で生きてきた人は大いに苦労することになる。
誰もが育ちがいいと判断する家庭環境で育った方が社会への適応が難しいという何とも気持ちの悪い結果になってしまうのだ。
それならば、誰もが交換の論理の嗅覚を身につけるべきなのか?
いや、そうとも限らない。
『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』で述べられているように、交換的な人間関係ばかり構築していると、人間は簡単に孤立する。
肩書きがある頃には、毎年大量に届いていたお中元やお歳暮がぱったりと届かなくなり、家でひたすらテレビを見ることくらいしか、やることがなくなってしまったリタイア後の男性はどこにでもいる。
彼らは人間そのものとして周りから必要とされていたわけではなかったのだ。彼らの肩書きやスキルがその会社にとって一時的に必要とされていただけだった。
大量に届いていたお中元やお歳暮は、当然贈与ではなく、明確な意図や見返りを期待したものだったし、自分の言うことを聞いてくれた周りの人は肩書きゆえにそうしていただけだったのだ。
恐ろしいのは、自分の人間関係が「交換の論理」に従っていることを、孤立して初めて自覚する場合も多いということだ。
時代を遡ると、昔は贈与的に人を愛する行動習慣が社会的に組み込まれていたが、現代に至るに従って人間までもが市場経済に巻き込まれ、人に対する判断基準が自分が好む条件を持っているか否かになってきた。つまり人間関係に交換の論理が浸透してきたことは、すでに冒頭で紹介したフロムが20世紀に看破していた。
さて、社会が交換の論理で成り立っている以上、その影響を受けて人間関係もそちら側に加速するのか、ティール組織などに見られる組織のOS変更により、見返りを求めない美しい愛情が再び注目を浴びるのか。
損得勘定と愛の狭間で、今日も我々は揺れている。
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参考・引用
(1)近内悠太『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』2020年、NewsPicks
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