曖昧な表現をするなと上司に怒られたことを今でも覚えている。
「こういう風に思ってしまうんじゃないですかね?」「こう考えたりしているのではないでしょうか?」私は解釈の余地を含む、ある意味曖昧な表現が好きだった。
しかし曖昧さが残る表現を上司は決して許さない。東大卒の古風な上司だった。
ビジネス書やインフルエンサーの意見の中に、曖昧な表現で断定できないのは、本人に自信がないから。その言動を見ているだけで、他者からは信頼できない人のように映る。という趣旨の内容がある。何度も目にしてきた内容だ。
もちろん自信がないから曖昧な表現になることはあるだろう。しかし、繊細な人には例え自信があっても断言をしたくない他の理由が存在するのだ。
言葉の重み
「キモい」「ブス」「死ね」などの言葉はとても殺傷力の強い言葉であるため、おそらくほとんどの人が特定の誰かに向かって直接この言葉を使うことは避けるだろう。
思春期に彩られたやんちゃな子供達でもない限り、この言葉の持つパワーはある程度理解しているはずだ。
「殺傷力」と表現したが、言葉とは多かれ少なかれその人の気持ちや感情が乗るものだ。それはプラスにもマイナスにもなりうる。
繊細な人にとって、何かを断言することは「自分が絶対正しいと決めつけること」「相手に議論や選択の余地を残させないこと」「相手に多少の圧迫感を与えること」という気持ちや感覚が言葉に伴うように感じる。
そういう意味で、自分の意見であればこそ断言しにくく感じる。これはその意見に自信があるのかないのかとは完全に別の話で、自分の意見に自信があっても、相手に与える影響を考えて断言しないことはよくあることなのだ。
繊細じゃない人と繊細な人の受け取り方
特に繊細でない人は、断言することによって生じる微妙な感覚を感じていないか、感じていてもほとんど気にならないレベルで受け取っているはずだ。
そういう感性であれば、自信がある場合どんどん断言することができる。こういうタイプの人はビジネスをはじめとするヒエラルキー型の組織で役職が上の人に多いように思う。
逆に言うと、なんでも自信があるように断言する人は繊細な人にとって苦手なタイプになりやすい。断言する時に生じる波動が刺さってくる感じがするのだ。
それで繊細な人は、単純に「〜して下さい」とすれば良いところを、わざわざ「〜して下さると助かります」のようにトゲや波動が弱い言い方に換言することが無意識の中でとても多い。
自信がないからじゃない
繊細な人でも、「太陽は明日も登ります!」と言うような表現はとてもしやすい。それは、科学的に正しいからという側面もあるが、もう一方、誰かに圧迫感を全く与えない表現だからなのだ。
太陽は実は毎日登っていないという新説を唱える人にでも出会わない限り、断言することを誰かに配慮する必要がないからこそ断言しやすい。
それくらい繊細な人はあらゆる人間関係で人の感情の波のようなものに晒されて生きている。ファミレスに行っても忙しい時に店員さんがイライラしている感情の波がすぐに伝わってくるし、役所に行って簡単な手続きをする場合にも、相手がどんな状況なのか知りたくないのに伝わってくる。
そういう日常を過ごしていると、自分の意見を求められた時に、どうしても周りを刺激しないような曖昧な表現で平和的に済ませてしまうのだ。
だから、はっきりしない自信の無さそうな意見を言う人をどうか悪く思わないでほしい。その人はもしかしたら、自信がないのではなく、1番状況が見えているが故にその場を刺激しないようにしているだけかもしれないし、自分が絶対に正しいと主張することがそもそも美しくないと思っているだけかもしれないのだ。
保身のためではなく、周りの人のために断言を避けることは起こりうる。
断言しないメリット
せっかくなのでついでに断言しないメリットを考えてみた。
政治の場から、日常の会議に至るまで多くみられるのだが、何かを断言する形でポジションをとってしまうともはやそこから気持ち的に引けなくなる。
自分の意見に反対の意見が来ただけで、それに反論することが目的のようになってしまう、もはや話し合いにならないのだ。断言すると、さっきの意見は間違っていたから考えを変えますとは相当言いにくくなる。
建設的な意見を出すのが目的だったはずが、相手を言い負かして自分メンツを守るための言い争いになっている場面を多くの人が見てきたことだろう。
それに対して、自分の意見に自信があっても断言さえしなければ、自分の意見の間違いや、より良い意見の発表があった場合にそこに適応しやすい。自信があるように話せば良いという問題ではないのだ。
断言せず、周りを傷つけようとしない人にももう少し注目してもらえないものだろうか。
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