繊細すぎて使えない言葉

言葉遣いにはその人の内面が多く現れる。

何を話すのかというWhatの部分も大いにその人を表すが、どういう風に表現するかというHowの部分も同じくその人を作り上げる。

言葉遣いはまさにHowの一部だ。

まさにその中で、よく他の人は使っているが、この表現は繊細すぎる自分には使えないと感じた表現がいくつかあったので紹介したい。

要らない

ある人が他の誰かに対して「これ要る?」と聞く。もう一人が「要らない」と答える。「ああ、そう。」最初の人が返す。

さて、質問だ。このやりとりの中で何か不思議に思うところはあるだろうか?多くの人にとって、これはごく自然な会話で、特に変わったところはない…と思うだろう。

しかし、この手のやりとりを見て思った。自分は「要らない」という言葉を誰かに使えない人間だと。また「要らない」という表現を使えるのが普通の人なのだということも同時に考えた。

私にとって「要らない」という言葉は、相手の好意を跳ね返すニュアンスを与えてしまうような感覚があり、ちょっとキツく感じるのだ。同じ意味で、例え言葉が丁寧でも「結構です」という言葉はキツい感じがして使えない。

自分がこのシチュエーションで「要らない」を表現する場合には、「大丈夫です」「自分は良いかな」などの言葉を使う。相手の好意を跳ね返す感覚がないので安心して使えるからだ。

ただし、「要らない」と表現する多くの人が、相手を跳ね返す意図なくその言葉を使っているのはよくわかっている。これはただ私がそう感じてしまうだけの問題だ。

私と同じように要らないとは言えない病にかかっている人は他にもいるのではないかと思う。そういう人はおそらく繊細な感受性を持っていそうだ。

これは要らないという言葉を使うべきだとか使うべきではないとかそういった善悪の話ではない。正解はない。ただ、感性の違いがあるだけだ。

そう考えると、HSPをはじめとする繊細な人たちは使う言葉は無自覚ながら多くの人と異なる気がする。

お前

以前、クリスマスにテーマパークのお化け屋敷の中でバイトをしていたことがあった。今思い返しても不思議な経験だ。

予想通りほとんどの客は若いカップルで、カップル以外のお客さんは若干浮いている感じがあったと言っても過言ではないほどだった。しかも当然超満員だ。

ある意味で、人生でこれだけカップルを観察する機会はないと思い、じーっと見ていた。

その中で一つ気づいたのは、男女問わず、相手に「お前」と言える人が多いことだ。考えてみれば、恋人以外にも友人や家族に「お前」という言葉を使っている人をたくさん見てきたことに気づいた。

私は「お前」という言葉にかなりキツいニュアンスを感じ取っており、一切人に向けて使わないし、使われるのにも抵抗がある。仲の良い友人や妹にも無理だ。

「お前」という表現に、どうしても相手を見下す感覚や、相手に対する尊敬に欠ける感覚を感じ取ってしまい、避けてしまう。

もちろん、その言葉を使う人にとってはそうではなく、逆に親しみ深い感覚を持って使っている場合もあることを知っている。ただ私の感覚が人と違うだけだ。これも正しい間違っているの話ではない。

人間観察

こうやって観察してみると、繊細な人の言葉の選び方はそうでない人とかなり違う可能性がある。繊細な人にとって同じような気持ちを分かち合いたければ、人の言葉を観察するのは良い手段と言えるかもしれない。

言葉に気をつけよう。言葉の積み重ねが最終的に人格や運命に影響を与えるというような格言はよく聞く。そういう意味で言葉の選択が重要だと。

だが、言葉に気をつけなくとも、逆に自分の感性や人格が常に言葉になっている。

つまり、使う言葉に気をつけないとそれがより大きな事象につながってくると考えるのも確かに大事だが、自分や周りの人がどういう感性や人格を持っているからどういう言葉が出てくるのかという観点を持つこともとても重要だと思うのだ。

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ABOUTこの記事をかいた人

IQ155オーバーだが、自信があるのはEQ(心の知能指数)の方で、繊細な感受性の持ち主。 大学時代に週末はあらゆる大学生と人生を語り合うことに費やした結果、人を見下していた尖り切った人生から、人の感情を共感し理解する相談役の人生へとコペルニクス的転回を果たす。 これからの時代は感情の時代になると確信しており、感情のあり方が幸せに直結するとの考えから、複雑な感情の流れを論理的に整理することに挑戦している。 モットーは Make the invisible visible 詳しい自己紹介はこちら