組織が変わるべきか個人が変わるべきか

ティール組織という新しいOS

とんでもない天才だと思った。

事の発端は2017年8月、銀座でティール組織に関するイベントに参加したところから始まる。日頃から組織という不完全さに悩んでいた私は、とてつもない感銘を受け、早速文献を漁った。

当時ティールを冠する出版物は日本には一切存在せず、ティール組織の形態の一つであるホラクラシーに関する本を手に取った。そしてその著者の発想に私は度肝を抜かれたのだった。

それまで、組織の不完全さに対抗しようと、人はリーダーシップのあり方を考えたり、フォロワーとしての戦略を考えたり、マネジメント手法を構築した。全ての前提にあるのは、組織がヒエラルキー構造だという一点だった。

そこに突如現れる、そもそも土台にあるヒエラルキー構造自体が機能不全の原因になっているという推察。これまでの前提を完全に疑ってかかり、フラットで、透明性が高く、心理的安全性を重視した新しい前提を作り上げるという試み。考案者は天才だと思った。

天才という言葉を使うことに意味を持たせたいので少し触れさせてもらう。複数の高IQ団体に所属していて思うのだが、IQが高いというのは、「答えのある問題を解く能力」が高いにすぎない。

IQが数値化出来るというのは、結局はそういう意味だ。極端な言い方をすると、論理的なパズルを解く能力が高いという以上の意味合いを持つかどうかは微妙なところで、個人的には高IQの人を尊敬はするが、天才だとはあまり感じない。

しかし、誰もが当然だと思っている既存の枠組みを疑ってかかり、新しい枠組みを作り上げてしまうような人間は、私からすると紛れもなく天才だと思う。ホラクラシーの本を読んで私が感じた衝撃はまさにそれだった。

つまり、誰もがこぞってアプリ開発の熾烈な競争を繰り広げているときに、「このOSじゃどう頑張っても良いアプリなんてできないので、OSから開発しなおしましょう」ということだった。天動説から地動説へのコペルニクス的転回である。

もちろん私は手放しでティール組織が万能薬だと訴えるつもりはないし、ティール組織の概念自体がそのような性質のものではないはずだ。ティール組織は既存の組織とあまりにかけ離れており、すぐに変化できるものではないし、適応できる人や環境をシビアに選ぶ。

しかし、ティール組織のもたらした恩恵は「ティール組織の絶大な効果」ということよりもむしろ、「OSって実はWindowsだけじゃなかったんだ」と人々が気付くようになったことではないだろうか。

ヒエラルキーを否定することは異端審問を覚悟しなければならないほどに、日本のヒエラルキー信仰は根深かった。もちろん、中にはヒエラルキーに対する嫌悪感を持っていた人もいるだろう。

しかし、イギリスの元首相であるウィンストン・チャーチルが「実際のところ、民主主義は最悪の政治形態ということができる。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば、だが」と民主主義を表現したごとく、ヒエラルキーは最悪だが最善の仕組みだと思うしかなかったに違いない。

しかし、それに対抗する知恵や構想を突如として与えられたわけだ。

個人的には、それをきっかけとして、組織の中で生きる人たちが少しでも幸せになるならば嬉しいと感じていた。実際、その後2018年1月に『ティール組織 −マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現』が発売し、様々な賞の受賞を伴って大きな話題になった。(1)

しかし昨年、まったく別の観点から組織の不完全性を克服するアプローチに関して書かれた本がある。

対話という見失いがちな本質的アプローチ

2019年、『他者と働く –「わかりあえなさから」から始める組織論』という本が話題になった。(2)

その中には、既存の知識や方法を用いることで科学的に対処可能な「技術的課題」ではなく、複雑な人間関係が生み出している故に単純な技術では手に負えない「適応課題」に対して、対話を用いて解決していくという手法が紹介されている。

2種類の課題に対して本書の例を用いるならば、社内でデータがうまく共有されていないという問題は、クラウドサービスなどの既存の技術ですぐに解決できるため「技術的課題」に分類されるが、仕事の協力を他の部署に依頼しても協力してくれない場合などは「適応課題」に分類される。

特筆すべきは、その困難な適応課題に対して、対話という平凡でありながらも汎用性が高く、切れ味のある解決方法を提示しているところだ。

本書では、ナラティブ(解釈の枠組み)に対する理解を深めるところから始まる。自分の役職や性別、育ってきた環境などで物事に対する解釈はまったく違うものになる。

しかし、自分のものの見方が全てだという風に人間は極めて錯覚しやすいため、対話は困難になりやすい。自分の解釈の枠組みも、相手の解釈の枠組みもまったく違うのだ。

そのナラティブを、自分のナラティブの理解、相手のナラティブの理解、そして2つのナラティブのどこに橋がかかるのかを客観的に理解しながら対話をしていくのがこのナラティブアプローチである。

ナラティブアプローチの強みは圧倒的な汎用性にあると言える。ここで説明しているアプローチで身につく対話力は、「人間力」と言い換えることもでき、仕事だけではなく、家庭や友人、趣味の人間関係などあらゆる場面で効力を発揮するのは間違いない。

個人的な意見にはなるが、現代は昔と比べ、対話力が著しく低下していると思うし、その傾向はこれからも続くと思う。理由はシンプルで、対話が通じない相手と向き合う必要性が薄れているからだ。

ネットの普及していない社会では、自分の周りの人間関係から目を背けるわけにはいかなかったと推測される。学校や仕事、近所付き合い以外の人間関係がそもそも構築されにくいからだ。そういう意味では、嫌な人間関係でも、何とか克服しようと努める動機があったのではないだろうか。

しかし現代は違う。嫌な人間と接する必要性が、少なくとも社会人になるまではほとんどない。若者はネットでの人間関係の構築に慣れており、共通の趣味などを通して知り合うために付き合いとしても楽だ。良くも悪くも無理をする必要がない。

しかし、社会人になってからは、仕事や家庭など避けて通れない責任を要求される人間関係というのもどうしても存在する。そのような場面でこのアプローチが光る潜在性を秘めている。

個人が変わるべきか組織が変わるべきか

2つの例に関してまとめるならば、ティール組織は適応課題に対して、構造を変化させることで解決を目指すのに対して、ナラティブアプローチは個人の対話力の向上を図ることで解決を目指している。

それでは、適応課題に対してどちらがより有効なのか。ティール組織のように組織の構造が変わるべきなのか、ナラティブアプローチのように個人の対話力を向上させるべきなのか。

私は、両側面が必要だと考えている。

ティールの手が届く範囲

既存の組織をティール組織の構造に持っていくというのは現実的に簡単ではない。また、人を信頼することや肩書に執着がないことなど、適応できる人を選ぶ傾向にあると思う。無理矢理適応させようとする場合、大勢の退職希望者が出そうだ。

また、企業を含むなんらかの法人に適応させることを検討はできるが、夫婦関係や親子関係、友人との関係に適応するとなると非現実的な話になる。適応課題を抱えているのは企業だけではないのだ。

つい先月の話だが、イギリスのメディアBBCが「日本の多くの子供たちはなぜ学校に行くのを拒むのか」というタイトルで記事を書いた。そこには不登校を意味する”futoko”という単語が用いられ、日本発の不名誉な英単語として新たな歴史を刻んだ。(3)

その意味を考えてみよう。実は私の知り合いが、不登校コンサルのようなビジネスをやっている。親から相談を受け、お子さんが学校に行けるようになることを目的としたビジネスなのだが、突き詰めてみたら、問題の根本が親子関係や夫婦関係に行き着くことが多いそうだ。

知人は、そういった適応課題に親自身から向き合ってもらっており、最終的には親が変わることで子供が変わっていく。劇的な変化に泣いて喜ばれることもよくあるという。この手の適応課題の解決は組織変革では難しそうだ。

対話というシンプルな難題

逆に、対話という抜群の汎用性をもつアプローチにも限界はあると考えている。構造が持つカルチャーの影響力が強い場合、ナラティブを認識するのが難しいという点だ。

人間は常に自分が所属している組織の影響を受ける。そして、自分が起きている時間に一番いる時間が長い組織が学校や会社である以上、そのナラティブをプライベートに無意識に持ち込んでしまうのはある意味当然のことだ。

お恥ずかしい話だが、自分が初めて仕事でポジションを与えられた時、周りに対して横柄になってしまったことをはっきり覚えている。その時は悪気はなかったが、自分は周りから立てられて当然で、偉い人間かのように錯覚してしまう恐ろしさを味わった。

しかし、何よりも難しかったのは、その感覚が仕事以外の時にも残ってしまうことだった。仕事ではマネジメントの観点から必要に迫られていたそうなっていたとしても、仕事以外でそうなってしまうというのは悪夢そのものだ。

組織が持つナラティブの影響を強く受ける場合には、ナラティブの客観視はとても難しくなってしまう。凝り固まった組織の影響を受けた人が客観的になるのが難しいのは、様々な分野で過激派と呼ばれる人たちを見ていれば容易に想像がつく。

しかし、ナラティブアプローチの前提条件は、自分や他人のナラティブを客観視できることなのだ。何というシンプルな難題。

前述の不登校コンサルの顧客は、大企業勤務や、大学教授など裕福で聡明な方が多いという。つまり、優秀であればナラティブを客観視できるわけではない。私が思うに、高学歴な人の傾向は、自分独自のナラティブが強い。それが良い方向に作用するかそうでないかは別として。

個人と組織の相乗効果

適応課題の難しさに触れてきたが、私自身はティール組織に端を発する組織というOSのデザイン及び再インストールはとても有効で美しい戦略だと感じているし、個と個の対話力というのは現代人が見失いかけている本質であり、義務教育で教えて欲しい内容だと評価している。

そんな中で、組織の構造と個人の力が両方合わさった時、どんな美しい絵が描かれていくかわくわくする。ただそれだけだ。まだまだ現実とかけ離れた内容だが、そういう妄想がやっぱり面白い。

参考・引用
(1)フレデリック・ラルー『ティール組織 −マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現』英治出版、2018年
(2)宇田川元一『他者と働く –「わかりあえなさから」から始める組織論』ニューズピックス、2019年
(3)https://www.bbc.com/news/world-asia-50693777

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IQ155オーバーだが、自信があるのはEQ(心の知能指数)の方で、繊細な感受性の持ち主。 大学時代に週末はあらゆる大学生と人生を語り合うことに費やした結果、人を見下していた尖り切った人生から、人の感情を共感し理解する相談役の人生へとコペルニクス的転回を果たす。 これからの時代は感情の時代になると確信しており、感情のあり方が幸せに直結するとの考えから、複雑な感情の流れを論理的に整理することに挑戦している。 モットーは Make the invisible visible 詳しい自己紹介はこちら