歴史を通して議論され続けてきたテーマに「生まれか育ちか」という二分法がある。
数学のテストの点数から鬱の傾向に至るまで、私たち個人の能力や行動現象、アーティスティックな表現で言えば「運命」が、どれくらい先天的、遺伝的要素で決まるのかという究極的な内容だ。
このテーマが意義深いのは「人口減少が加速する日本では、2040年には自治体の半数が消滅の危機に陥る」「日本の自殺者数は10年前から右肩下がりだが、未成年者の自殺死亡率は右肩上がりである」というような、極めて重要だが自分の実感と結びつきにくいが故に、万人が関心を持つのは難しい事実と違い、誰にとっても自分ごとになりやすいという部分だ。
「自分を知りたい」というのは人間の根底にある欲求だが、生まれか育ちかという議論は私たち自身を理解する上で大きな材料になる。
16世紀にジャン・カルヴァンが主張したような、神の救済に預かる人間とそうでない人間は生まれる前から決められているという強烈な予定説のごとく、生まれが全てだと主張する人は今日においては稀だろう。
だからと言って、遺伝的な要素が私たちの運命に与える影響は全くなく、後天的な環境と個人の努力こそ全てであると完全に信じている人も多くはないはずだ。
このうち「育ち」が重要であることは私たちが生まれた後の実感に直結しているため、非常に理解しやすい。
フィリピン人の若者が英語を話せるのは、アメリカの植民地時代に英語教育が進み、今では学校で使われる言語が英語になっているからだ。
タイ人の若者が英語が苦手なのは、東南アジアで唯一、欧米からの植民地化を免れたため、英語教育の環境が整っていなかったからだ。
マレーシア人の若者が英語を話せる人とそうでない人に分かれているのは、この国自体はイギリスの植民地ではあったが、多民族国家であるが故に、公用語のマレー語以外の言語が多数あり、環境によって教育の方向性に差があるからだ。
確かに「育ち」が重要なのはわかりやすい。
それならば「生まれ」の重要性はどうだろうか。感覚的になんとなく生まれによって差があると認識している人が多いだろうが、客観的にエビデンスを説明するのは一般人には難しい。
それなら、それを専門にしている人たちに注目してみよう。進化生物学者だ。
遺伝子の影響
人間のネットワーク科学や、行動遺伝学を専門とするイェール大学の研究者ニコラス・クリスタキスは著書『ブループリント』の中でこう説明する。(1)
なんらかの行動現象(個人の性格から、うつ、回復力、暴力にいたるまで)に遺伝子が関係していることを新しい研究が発見するたびに、その結論には意地の悪い小さなアスタリスクがつけられる。遺伝子は運命ではない、と私たちは教えられる。遺伝子が私たちの今後を決定することはなく、本質的に定義することもない、と言われる。
人間の本性を説明するものとして遺伝を重視するのはよろしくないと、ことあるごとに勧告される理由の一つは、この主張がすんなり通ってしまうと、それが濫用されかねない恐れがあるからだろう。多くの良識ある人は、人間の行動に遺伝がかかわっている証拠があっても、そんなものはいらないと思う。その先には「深刻な危険が待っている」だけだと思っているからだ。警告音が鳴り止んだら、過去の忌まわしい優生学の弁明が出てきてしまうに決まっている。
つまり、遺伝的な要素を強調した場合、それが事実であっても悪用されかねないことから、その主張から目を背けられてしまうというのだ。
実際に、ニコラスは犯罪率のような社会的な事柄に生物学が関わっていることを一切認めない著名な学者に、丁寧にその科学的な証拠を説明したことがあると述べている。
優生学や差別への懸念は最もだが、科学的な現実を認めることこそが道徳的に好ましくない結果を避けるための最善の道であり、生物学的な証拠を認めることそのものが差別を生み出すのではなく、大切なのはその解釈だと彼は指摘する。
この手の生物学者の苦労話を聞くのは珍しいことではない。
その別の理由として、真実とポリティカルコレクトネスの相性が悪すぎることが挙げられるのではないかと最近思うようになってきた。
ポリティカルコレクトネスとは、差別や偏見のない中立・公正な表現を使用することを意味する。しかし、生物学的な真実が完全に中立で、公正な価値観にとって都合がいいとは限らないことから、ひずみが生じているように見えるのだ。
理想の社会の地図
欧米がリードしてきたポリコレの観点から見る理想的な社会は、人種差別や男女差別がなく、個人の権利が最大限尊重され、貧富の差のような「育ち」における格差を無くした社会だと私は考えている。
生まれた後の環境さえ整えば、誰もが必要な成長のための恩恵を享受できる、わかりやすく平等な社会だ。
もちろん聞こえはいいのだが、この理想の根っこには間違いなく「個人主義」がある。歴史的に見て、今ほど個人の権利や自由を強調する時代は初めてではないだろうか。
昔は義務のように考えられていた結婚さえも、今では個人の自由の範疇の中だ。
そういう社会では「個人が過ごす80年余りの人生スパンで誰もが平等であること」こそ理想だという発想になる。
しかし、生物学者たちが言うように、生まれた時点で遺伝的に受け継いだものに大きく差があったとしたら?
このストーリーは簡単に破綻する。生まれた後の環境を整えたとしても不平等は解消されないからだ。
子孫繁栄という感覚を持っていた古き時代と違い、個人の人生をいかに謳歌するかという価値観が根付いた現代社会において、スタートラインが先天的に違うという事実があったとしても、それは多くの人にとって(特に生まれにコンプレックスを持つ人にとって)受け入れがたい事実になってしまう。
人は後天的に経済的、教育的環境さえ与えられれば誰もが平等に成功できることを信じたい気持ちは宗教のようなものだ。
平等だという科学的な事実があるからそう認識するのではなく、平等であってほしいという理想や夢を信じたいから人はポリコレを重要視する。
男女平等の闇
「話を聞かない男、地図が読めない女」という世界的なベストセラーを書かれたご夫妻は、男女の違いについて書く苦労を本の中でこう表現している。(1)
この問題の根本的な原因は、男と女はちがうという単純な事実に尽きる。どちらが良い悪いではなく、ただちがうのである。これは科学者、人類学者、社会生物学者には常識でありながら、あえて世間には知らせてこなかった事実だ。というのも、人種や性別、年齢などで人間を差別しない、つまり「政治的に正しい」ことをめざす社会では、そんなことを口にするとつまはじきにされるからだ。いまの世の中では、技能や適性、能力において、男女差はないことになっている──だが、その前提が完全な誤りであることは、科学の世界では以前から知られていた。
ポリコレは男女の「区別」と「差別」が同じものだと人々に働きかける。区別は差別であり良くないからと真実側に圧力を加えている。
本質的な問題は「差がある」ことではなく「差があることをすぐに優劣や善悪と判断する人間の中の貧しい心」であることに気づいていない。
さらに先述のご夫妻のコメントを引用する。
いちばん骨が折れたのは、官民を問わず組織の人間にインタビューして、雇用の男女差について意見を聞きだすことだった。たとえば、航空会社で活躍するパイロットのうち、女性が占める割合は一パーセントにも満たない。航空会社の幹部とこの点について話しあおうとしても、性差別や女性蔑視ととられるのを恐れて、なかなか口を開いてくれなかった。「ノーコメント」を通す人が大半で、なかには自分の名前が本に出ないよう、脅しまがいのことをする人もいた。最初は愛想が良かったのに、調査目的を知ったとたん、内容もよく知らないうちから怒りだし、フェミニズムへの攻撃だといきりたつ女性重役もいた。
この本に載せた意見のなかには、薄暗い密室で、本人や所属組織については言及しないという約束のもと、企業の重役や大学教授から「オフレコ」で聞きだしたものもある。彼らの多くは本音と建て前を使いわけていた──世の中に堂々と出せる「政治的に正しい」見解と、「引用されたら困る」ほんとうの意見である。
男女平等には、ポリコレVS生物学者が見出している遺伝的な真実という構造がある。そしてこの両者の相性は驚くほどに悪い。
つい先日も社会全体がポリコレの力を直に目撃した。
東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の森元会長の女性蔑視発言だ。いわゆる「女性がたくさん入っている会議は時間がかかる」なのだが、私は正直生物学的にはその通りだと思う。
森元会長の一連の言動を全面的に支持する意図は全くないが、私の身の回りの女性に聞いても「そりゃ時間かかるよね」ということだった。ただし、時間がかかる会議になるから悪いとは私は全く思わない。女性のその特性が、細かく深い意見を引き出せる可能性も大いにあると考えている。
この一件での報道のされ方は「女性がたくさん入っている会議は時間がかかる」という意見が明らかに女性差別だというもので、世界的なポリコレの感情の波はまだまだ幅を利かせているようだ。
もしこの発言が、女性は時間がかかるから委員会に選出しないという内容であれば、私はそれを差別として受け取っただろう。明らかに女性蔑視だ。しかし、全文を見る限り全くそうではなさそうに見える。
我々は公の場で男女の区別の話をすることさえも依然として難しいらしい。
余談だが、男女の区別に極めてうるさいアメリカでも、アスリートの競技シーンでトランスジェンダー女性(出生時の生物学的な性は男性だが、自認する性が女性の人)をどう扱うかという問題に関しては激しくもめている。
2020年8月18日のニューヨークタイムズの記事によると、昨年3月アイダホ州ではトランスジェンダー女性が女性としてスポーツ競技に参加することを禁じた。(2)
それに対し、トランスジェンダーの選手たちがこれは合衆国憲法違反だとして同州の連邦裁判所に異議申し立てを行い、地方裁判所の裁判長は暫定的にアイダホ州の法令を差し止めた。
逆にコネチカット州では、自認する性別のもとで自由に大会に参加できる。しかし、その結果、トランスジェンダー女性の競技者が短距離の部門の優勝を独占することになり、シスジェンダー女性(出生時の生物学的にも、性自認も女性)たちがコネチカット州全高等学校体育協会のこの方針に異議を申し立てる泥沼の展開になっている。
この波はいずれ日本にも訪れるだろうが、はっきりしているのは誰もが幸せになる解答がないということだけだ。
生物学とポリコレはここでも激しい戦いを強いられている。
真実が勝つか感情が勝つか
「育ち」が大きいと信じたいポリコレの風潮の中で、生物学者たちは「生まれ」の持つ影響力に驚き、人間の遺伝的な変化に驚愕している。
今ざっと調べても性犯罪や凶悪犯罪、精神疾患と遺伝の関係性を調べている研究はいくらでも出てくるし、ポジティブさやストレス耐性、幸福度などのプラスの側面と遺伝の関係性を指摘する研究もたくさん存在する。
もちろん全てが真実とは言えないが、これからもこういった研究は深まっていくだろう。
「生まれ」が占める要素が多いことが今後さらに明らかにされればされるほど、ポリコレの観点からそれを阻止しようとする人が増えるだろう。
真実とポリコレが真正面から激突して、真実が勝利をつかみ始めた時、世界がどう変わるのか私は楽しみにしている。
不平等だからこそ差別がはびこるのではなく、不平等だから相互理解や助け合いが助長するシステムが出来るよう期待したい。
参考・引用
(1)アラン・ピーズ、バーバラ・ピーズ『新装版 話を聞かない男、地図が読めない女』主婦の友社、2015年
(2)https://www.nytimes.com/2020/08/18/sports/transgender-athletes-womens-sports-idaho.html
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