環境にハックされる私たち

「資本主義とは経済システムのことではなく、一つの人間観です。」

この文章は『世界は贈与でできている』という本の中に出てくる一節なのだが、非常に切れ味の鋭い言葉だと感心する。(1)

というわけで、この表現を一つの切り口にして、個人が知らず知らずのうちに環境から影響を受けて形成される人間観について考えてみたいと思う。

資本主義って経済システムのことじゃないの?

恐らく「資本主義」という言葉を人間観だと理解している人はほとんどいない。どう考えても経済システムのことじゃないかと思う人が多いはずだ。それなら、この経済システムがどう人間観とつながり得るのか。

資本主義の社会では、全てのものを「商品化」し、お金で交換できるようにする性質がある。

人間も例外ではない。時給1000円で働く場合は、その人の1時間の価値は1000円だ。企業が人件費を削減したい場合は、削減できるお金に対して不要な人間を選ぶわけだし、就活の面接ではお金と交換する価値があると思う人間のみを選ぶ。

少なくとも、あなたはかけがえのない存在だとか、あなたと同じ人は世界中どこにもいないとか、そういう世界観を生み出さないシステムであることははっきりしている。あなたの代わりはどこにでもいる。

また、このお金と商品の平等なる交換システムを違和感なく受け入れていくと、お金以外のところにも「交換の論理」を持ち出すようになる。

マッチングアプリで良さそうな相手をひたすらスワイプして探し続けることは、Amazonの欲しい商品をスワイプして見極める行為とさほど変わらない。いずれの場合も、自分にふさわしく、自分に手に入れられる条件の商品がどうか論点だ。

Amazonで電子機器を探していると、関連商品や類似商品が同じページの中に表示される。開いているページの商品に満足できないのなら、こんな商品もありますよというわけだ。もちろんこの資本主義社会、類似商品はいくらでもあり、ある特定の商品じゃないと絶対にダメだという状況は少ない。

マッチングアプリで候補者を探していると、あなたの好みに合う他の候補者も表示してくれる。開いているページの人に満足できないのなら、こんな人もいますよというわけだ。もちろんこの人口爆発社会、他の候補者はいくらでもおり、ある特定の個人じゃないと絶対にダメだと考える人は、スワイプして候補者を探す段階では少ない。使ったこと無いが多分そんな感じだ。

そう、資本主義のもたらす人間観は「唯一無二のあなた」ではなく「他の誰かといくらでも交換可能な存在としてのあなた」であり、もしあなたに商品価値がなければ、誰からも必要とされないという中々にシビアなものだ。

そこまで極端な人間観は持っていないと思うかもしれないが、あなたがもし周りの人との競争に勝って評価されることに夢中になっていたり、周りとの比較から劣等感や低い自己肯定感に悩まされているようなら、あなたの人間観は資本主義の人間観と遠く離れてはいない。

また、人と商品の区別がつかなくなると、損得勘定が大いに顔を出す。

100円均一の店で、これは100円にしては得だとか損だとか考えるように、誰と接するのは得だとか損だと考え始め、実際に人と接してもいても、どちらがより得をしているかをいちいち気にしはじめる。

「私だけ損していて不平等だ」「あの時は手伝ってあげたのにこちらには何もしてくれない」などの思考にどっぷり浸かっている頃には、もうその人間観は資本主義にハックされている。

資本主義という人間観がわかりやすく悲劇的な結末を迎えるのは、退職後の男性だ。

定年退職後に、人間関係がとても希薄になり、どこにも行かずに家でゴロゴロしながらずっとテレビを見続けている男性が社会問題となっている。鬱や引きこもりになる場合もあり、家族がいる場合には大きな負担になる。

彼らがそうなった理由は単純。人間関係を資本主義的に築いてきたからだ。

彼らは肩書きを商品価値として、仕事に偏って人間関係を築いてきた。故に、肩書きがなくなった瞬間、お中元もお歳暮も来なくなり、会社に呼ばれることもなく、必要とされなくなった。資本主義的な交換の論理で人間関係を築く場合、こういう帰結になるのは自然だ。交換できる価値がその人になければ何も残らないということなのだから。

おじさんに価値があったのではなく、おじさんの肩書きに価値があっただけのようだ。しかし、その人間観を自ら選択したのはおじさんなのだ。おじさんの悲劇はそれに気づかなかったことだと思う。

もちろん、美貌を商品価値として人間関係を築けば、年齢と共に交換できる商品価値は薄れていくし、財力を商品価値として人間関係を築けば、財を失った瞬間に商品価値はなくなる。

全く別の人間観

資本主義が人間観だというのなら、そうじゃない社会の人間観とはどういうものなのだろうか。この好例の1つがブラックフットインディアンだ。

欲求階層説で日本でも有名なアブラハム・マズローは、若き日に、ブラックフット・インディアンと呼ばれる北アメリカの先住民族に関するフィールドワークを行った。(2)

彼らを理解する上で、まず一番裕福な人物に話を聞こうとしたマズローは、家畜を一番多く所有している男を見つけたが、なぜか他の人たちはその男のことを、裕福でもなんでもないと主張した。実は、裕福の定義が全く違ったのだ。

ブラックフット・インディアンは、1年に1度、その年に働いて蓄積した財産を他の人々に分け与える儀式を行う。そして、最も財産を分け与えたものが尊敬を集め、部族の富裕者となり、分け与えずに自分に財を溜め込むものは蔑視の対象になるという。

最も財をため込んだものが富裕者となる現代社会とは逆のシステムに、マズローは衝撃を受けてしまった。この社会では、たくさん分け与えた結果、尊敬を集め富裕者となる側も、財を分け与えらえれた側も両方が幸せになるのだ。しかも、分け与える側の自由意志によって、である。

分け与えた結果、財が無くなっても裕福とみなされるという人間観は現代とはあまりにも違う。現代では、一切分け与えなくても財が多い人が成功者であり富裕者だ。

組織が与える人間観

資本主義のようなマクロなシステム系を考えてもそうだが、もっとミクロな組織体制も、私たちに特定の人間観を強要してくる。

面白いと思うのが、たまたまよく知らない人とたわいもない会話をする時だ。その時の相手の言動で、その人の人間観が垣間見える。

試しに年下の人と何気なく会話できるくらいの距離感になったと考えてみてほしい。

私が年下と接する場合には、こちらから関心を持って色々聞いてみることが多いのだが、逆に年下から年上に関心をもつべきという人間観を無意識に持っている人も多い。

確かにトップダウンの企業にいる場合には、基本的には上が下の評価をする。ほとんどの場合評価される側に立つ下の立場としては、上の目を常に気にする必要があるし、上の機嫌を損ねない言動を心がける必要がある。

そうやって、下から日常的に配慮される接し方をされているおじさんがいるとすれば、プライベートでも自分から年下に対して特に関心も持たず黙っていても不思議ではない。

逆に、教育に力を入れており、普段から高い頻度で部下との1on1が行われているような企業に所属しているのであれば、プライベートの場面でも、自分から年下に関心をもつのが普通という人間観を持って行動していてもおかしくない。

このように、我々は所属している組織やコミュニティの人間観から、意識しているか否かに関わらず影響を受けている。

そして、誰もが一番影響を強く受ける身近な組織は家庭だ。

すでに死んでいる

さて、今回言いたいのは資本主義はダメだとか、トップダウンの組織はダメだとかそんなことじゃない。

もし、あなたが自分自身の人間観についてはっきりとした信念がないのであれば、もうすで洗脳されているだろうということだ。それくらい資本主義やあなたの育った家庭や親友や学校教育や企業文化はあなたに影響を与えている。気づかないうちにじっくりとではあるが、確実に。

以前は、信念ないと洗脳されるよなーくらいに思っていたが最近はそうではないと思っている。信念がない時点でもうすでに洗脳されている。

そして、人生観や人間観を深く考えない方がまとめる上で都合がいいので、日本の教育や社会システムはそこに触れないような仕組みにうまく誘導されているとさえ感じる。

自分の持っている人生観や人間観はいったいどのようなものなのか。そしてそれはどこから来たものなのかを考えてみるのも、たまにはいいかもしれない。

参考・引用
(1)近内悠太『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』NewsPicks、2020年

(2)中野明『マズロー心理学入門:人間性心理学の源流を求めて』FLoW ePublication、2016年

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IQ155オーバーだが、自信があるのはEQ(心の知能指数)の方で、繊細な感受性の持ち主。 大学時代に週末はあらゆる大学生と人生を語り合うことに費やした結果、人を見下していた尖り切った人生から、人の感情を共感し理解する相談役の人生へとコペルニクス的転回を果たす。 これからの時代は感情の時代になると確信しており、感情のあり方が幸せに直結するとの考えから、複雑な感情の流れを論理的に整理することに挑戦している。 モットーは Make the invisible visible 詳しい自己紹介はこちら