他国を訪れると敏感になる文化比較的な視点。
最近仲良くなった友人に、インドが大好きなあまり、インドを訪れるだけではなく、日本でも週の多くの時間をインド人と過ごしている日本人がいる。
彼によると、インドの魅力は、自動販売機でペットボトルのスプライトを買ったら中に水が入っていたり、横断歩道はよほど強い意志を持って車をかき分けるようにして自ら開拓しなければ渡れないといった出来事が起こる中で「混沌とした環境下での強さ」を求められるところらしい。
文化に優劣がないとはいえ、それぞれの国の中で昔から残る文化とその国における生きづらさというのは無関係ではない。
第二次世界大戦を前後して、アメリカの文化人類学者のルース・ベネディクトは日本という国を研究した。その集大成である『菊と刀』はあまりにも有名で、「罪の文化」「恥の文化」という言葉を聞いたことがある人は多いと思う。(1)
実は罪と恥の文化に関する考察が述べられるのは『菊と刀』の中の短い箇所に過ぎないのだが、日本の生きづらさに関するヒントが多分に含まれているので、その辺りについて考えることにする。
罪の文化
ベネディクトはアメリカを、「罪の文化」を基盤とする社会と述べた。
この文化では、自分の中の倫理観や道徳観に反することをしてしまったと感じた場合に、強い良心の呵責を感じ、苦しむことになる。
恥という概念と大きく異なるのは、自分の過ちが例え誰にも気づかれなかったとしても、罪の意識は大きく作用することだ。
つまり、道徳に反する時のトリガーは「周りの人の目」ではなく「自分自身の良心」ということになる。自分自身の信念や良心を裏切るということを気にしているわけだ。
例を挙げよう。脱獄をテーマとして扱った人気アメリカンドラマに「プリズンブレイク」という作品がある。
兄リンカーンが無実にも関わらず殺人罪で収監されたことを知った弟のマイケルは、脱獄の計画を立てた土台で自分自身も刑務所内に収監され、兄と共に脱獄を目指すというストーリーだ。
脱獄するということは、無実を証明することとは異なり、世間からのイメージは回復しないばかりかさらに恐れられるばかりだが、当の兄弟は世間からの悪いイメージに対してはあまり気にしていなかった。
無実という真実を自分たちは知っているのだから、世間からどう見られるとか、犯罪者扱いされるとか、そんなことはどうでもいいと言わんばかりだ。もちろん、バレて通報されないようにという一点に関しては気にしていたが。
しかし脱獄後、弟のマイケルは罪の意識にひどく苦しむ。兄と脱獄した結果、彼の周りにいた凶悪犯が同じく脱走して犯罪を犯したり、彼に刑務所で協力していた一般人が責任を追及されていくのだ。
もちろん、兄の脱獄におけるそういった二次災害を弟のマイケル自身が誰かから責められたわけではない。誰にどう見られてるからということではないのだ。あくまで、マイケル自身の良心に反することをやってしまったという罪の意識である。
結局、彼は密かに教会へ出向き、牧師に自分の罪を告白する。そして、赦しを得ようとする。キリスト教的な贖罪のシーンだ。
面白いのは、プリズンブレイク全編を見ても、マイケルがキリスト教徒であるような描写は一切なく、それどころか無宗教の人物のように描かれている。
しかし、当人の信仰に関わらず「罪の文化」が根付いているが故に、そのシーンは意味をなしている。キリスト教徒であるか否かに関わらず、罪や贖罪の感覚が存在しているのだ。
このように、罪の文化は周りの目に関係なく、自分の内面における善悪観を大切にする。
さて、ここで強調したいのは次の一点だ。
「罪の文化」においては、告白や贖罪をすることで、良心の呵責から解放されていく。安らぎを得ることができる。
さて、「恥の文化」では?
恥の文化
日本に根付いている「恥の文化」は、ご存知の通り「周りに変に見られないこと」や「周りに迷惑をかけないこと」などを倫理道徳の軸に置いている。
「罪の文化」と違い、自分ではなく他者がその価値判断の中心になる。
さて、この文化では大きな恥を感じてしまった場合にどのように回復するのだろうか。
罪の意識は自分の良心を裏切った時に感じられ、恥の意識は周りに知られた(あるいは知られたと感じた)時点で発動する。
しかし、罪を感じて牧師に告白するのとは違い、恥は誰かに相談したら噂話として広がり、更なる恥に拡大する可能性が高い。恥は決して知られてはいけないのだ。
そうなると、告白することで対処するというのは現実的ではない。逆効果だ。はたして他に良い対処方法はあるのだろうか。
もし自分に恥をかかせる原因になった対象がいるのであれば、その存在に復讐するというのは歴史的に採用されてきた1つの戦略だ。
ベネディクトは、日本の歴史的な文化として「侮辱された」「敗北を喫した」などの事情がある場合、復讐することは立派な行いとみなされてきたと主張する。その象徴として、新渡戸稲造が「報復には、人の正義感を満足させる何かがある」と語った内容が紹介されているのだ。
しかし、深く考えなくとも、復讐をすることで恥が消えるわけではないことはわかる。根本的な解決には程遠い。石に躓いて転んだところをみんなに見られて笑われたとしても、石への攻撃には恥を消滅させる効果がない。
かといって「生き恥を晒すくらいなら…」と自ら生命を絶ってしまう選択は、当然ながら万人にオススメできる手法であるはずがない。
結局ないのだ。かいてしまった恥を根本的に普遍的に解決する方法なんてどこにも。
強いていうならば、恥の意識は本人が恥をかいたという自覚がなければ発動しないので、誰にどう思われようとも気にしない、言わば恥知らずなメンタル(罪の文化への移行という選択も含む)に変貌を遂げるしかない。
もちろん、そんな一切空気を読まなくても平気な人間に簡単に変われるのならば、誰も苦労はしない。
圧をかけてくる恥
「恥をかいてしまうとそれ以前への回復が難しい」ということを前提にすると、我々の振る舞いは「恥をかかないようにする」ことにフォーカスする。
回復が比較的容易な症状と回復が難しい症状では対策が根本的に異なる。
現在、世界各国がコロナ対策と経済を回すことのトレードオフに悩まされている。ロックダウンすれば経済が止まり、経済を回そうとすればコロナ感染は避けられない。
それでも今の日本のように経済を回す理由は、コロナは回復可能な症状だと認識されているからだと思う。もし不治の感染症が広がっているのなら、罹らないようにすることが経済よりも優先されると見て間違いない。
回復不可能だとわかれば、そうならないように懸命に努力する。例えば、犬を飼育する場合、狂犬病予防のためのワクチン接種は義務になっている。狂犬病が一度発症すると100%死亡するからだ。回復は見込めない。
恥をかいてしまうと、回復が極めて難しいのであれば、コロナではなく狂犬病のような対応になる。なんとしても恥をかいてはいけない。事前に防がなければ。
そうすると、「人の目を強く気にすること」「決して失敗しない選択肢を選ぶこと」「出る杭にならないようにすること」「批判や嫉妬をされないこと」などにものすごい労力を割いて生きていくことになる。
生きづらい社会の出来上がりだ。
時代と共に国際的な感覚も身につき、少しずつ薄まってきているように感じられるこの恥の文化。
若い世代はこの文化を継承するだろうか、それとも変化を加速させるだろうか。
参考・引用
(1)ルース・ベネディクト『菊と刀』光文社、2008年
コメントを残す