批判的でないことを求める組織

会社で、12人のチームで1つのプロジェクトを動かすとする。ただし、この12人には指示系統のような階層はなく、みんなフラットな立場だ。

プロジェクトが問題に直面し、うまく機能しない場合のために、アドバイザーのような立ち位置として、1人のコーチを準備するとしよう。

あなたならば、そのコーチがどんな素養を持っていることが1番重要だと考えるだろうか?

色々な答えが考えられる。その分野における専門的な知識があること、課題解決力に優れていること、リーダーシップを発揮してチームを一つにまとめることができること…。

中々難しい問いだ。あなたは自分の中の明確な答えが導き出せただろうか。

オランダ最大の医療団体

実は、件の12人のチームという例は、オランダ最大の医療団体であるビュートゾルフのことだ。

ビュートゾルフは15000人規模の従業員がいながら、改造構造がなく、メンバーの自主的な裁量で相互に連携し合う、いわゆるティール組織だ。

そのビュートゾルフにとって、21人しかいない重要な役割を担うコーチに必要な素養は、「ジャッジメンタル(批判的)でない」「多様なアイデアに寛容」だと言う。(1)

私はとても驚いた。多様なアイデアに寛容だというのは、まだ語られなくもない観点だが、「批判的でないこと」が企業におけるコーチ(マネージャーと言い換えてもいいが)の素養で重要だという観点を、私は今まで本や記事などで誰かが強調するのを目にした記憶がない。

逆に、クリティカルシンキングの重要性に関してはそれこそ見飽きるくらいに強調されてきたように思う。本当にそうなのか、まずは疑ってかかるこのロジカルな態度は、正しいか正しくないのかをはっきりさせる方向へ物事を誘導する。

もちろん、クリティカルシンキング自体が即、誰かや何かをジャッジすることを意味しているわけではないが、クリティカルシンキングを重要視しているがジャッジメンタルでないなんて人は、ほとんど見たことがない。

クリティカルシンキングは正しいのか間違っているのかという側面に注目する態度である以上、「正しいもの」を評価し、「間違っているもの」をジャッジする(裁く)態度に繋がりやすいのは自然な話だ。

ジャッジメンタルが溢れている世界

間違っていることや人を正そうとする人が必要だし、それが上司やリーダーの役割の1つだということに異議を唱える人はあまりいないだろう。少なくとも、階層型の組織においては。

親は子供を厳しくしつけ、先生は生徒を必要に応じて叱る。部活の監督は部員を時に厳しく指導し、上司は部下の誤りを指摘する。

そういった光景は日常にありふれているものであり、もはや階層型の組織の中だけの話ではない。そういう環境で育った我々は、テレビを見れば批判に溢れているのを目にするし、SNSを見れば誰かがヘイトを買っている。何も珍しいものではない。

また、そういったジャッジを誰かから下されなければ、人は悟らないし成長しないと考える人も多いはずだ。

ジャッジメンタルな人が上にいない世界観

ジャッジメンタルでないことがコーチに求められるということは、厳しくされなくても、自分で考え、自分で学ばなければいけないということだ。細かくあれこれ言われてこそ前に進めるという感覚がある人にとっては中々厳しい世界だ。

また、自分自身がジャッジメンタルである場合は、その世界での肩身は狭くなりそうだ。

通常の組織では、上の方にジャッジメンタルな人がおり、様々な問題を指摘したり、批判的な思考ができる人は、人として好かれるかどうかは別として、仕事ができる人と見られることも多い。

だが、仕事のアドバイスをもらうコーチがジャッジメンタルでないことを求められる場合、ジャッジメンタルな人が心地よく過ごせるとはあまり考えにくい。フラットな組織では、「上司が部下を叱る」というような権威や地位に根拠を置いたジャッジもできない。

それならジャッジメンタルをなくして適応すればいいかというとそんなに簡単な話でもない。ジャッジメンタルを変えるのは難しい。

よくあるシーンを考えてみよう。お母さんが宿題をしない小学生の息子に対して感情的に怒鳴りつけた。息子はふてくされて部屋に篭ってしまった。

この場合、批判的な気持ちをぶつけたお母さんのメンタルを変えることはできるだろうか?

お母さんが主張する「宿題をしなさい」は論理的には正しい。人間は論理的に正しいことを言っているとさえ自覚できれば、批判的になろうが感情的になろうが、自分は正しいことを言っているのだから間違っていないと思う傾向にある。

つまり、自分が正しいと思う限り、ジャッジメンタルを変えるのは簡単ではないはずだ。

それではここで、改めて質問だ。あなたは次のうちのどちらの組織で働きたいだろうか。

1つは、階層型の会社で、上司が細かく指示して責任も取ってくれる。その代わりに主体性や裁量といった要素は期待できず、厳しくジャッジされることもある。

もう1つは、完全にフラットな組織で、あなたの主体的なアイデアや成長や責任が大いに求められる。何かに縛られたり圧力をかけられるようなことは少ないが、多様性に寛容であることを良しとされ、ジャッジメンタルであると不利になりやすい。

もちろん正解はどこにもない。どちらが優れているかというのも、人によるし状況による。ただ、多様な組織が存在するだけだ。

多様な組織という新しい時代の流れ

件の2つの組織ならば、日本人は割と前者の方を好むのかもしれない。イスラエル人などはほぼ後者の組織を選択しそうだ。

日本人に英語を教え、外国人に日本語を教えているうちの妹によると、日本人は授業をすると、先生は何を教えてくれるのだろうと、先生が提供してくれるものを従順に待つ傾向にあるらしく、逆に外国人は自分の日本語を聞いてくれとか、こんな授業をしてくれと提案してくる方が多いらしい。

この辺りの感性も組織への適性に大きく影響しそうだ。

ビュートゾルフが考えている「ジャッジメンタルでない」ということに関して、1つ思うところがある。

私がアメリカに住むようになった時に、アメリカ人に抱いた印象がまさに「ジャッジメンタルでない」だった。

え?アメリカって裁判大国であり、正義を大切にしている国、つまりジャッジメンタルな人が多いんじゃないの?と思われる方もいるのではないだろうか。

しかし、私の知る限り、アメリカ人は「自分の直接の利益に関すること」や「社会正義(男女平等、人種差別など)」以外のことに関しては、個人の思想や行動をいちいちジャッジしようとはしない。

個人主義の意識が非常に強いために、法に触れるような例外は別として、何を考えどんな行動を取ろうとも、それは個人の自由だという考え方が強く浸透しているためだ。

日本では大炎上する芸能人の不倫なども、アメリカでは本人たちの問題であり、あまりジャッジしようとはしないのだ。

しかし、世界を旅した経験のあるアメリカ人が「オランダ人は本当に人をジャッジしない」と言っていた。アメリカ人にそれを言わせるのかと私は少し驚いた。

そういう国民性がまさにオランダにあるビュートゾルフのような組織を作り上げたのかもしれない。

私は今回「ジャッジメンタルでない」という要素を大切にする組織があることに驚いた。通常の組織にあまりない発想だったからだ。今後組織の多様性が拡大していけば、自分の個性に合った組織を選択できるような時代がくるのかもしれない。

そうなると、私のような既存の組織に適応できない人間にも、選択肢が与えられるのかと少しワクワクする。待ち遠しい未来だ。

参考・引用
(1)https://drive.media/posts/26685

正しいことを正しいと言うことが必ずしも正しいわけじゃないという話

2019年10月26日

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IQ155オーバーだが、自信があるのはEQ(心の知能指数)の方で、繊細な感受性の持ち主。 大学時代に週末はあらゆる大学生と人生を語り合うことに費やした結果、人を見下していた尖り切った人生から、人の感情を共感し理解する相談役の人生へとコペルニクス的転回を果たす。 これからの時代は感情の時代になると確信しており、感情のあり方が幸せに直結するとの考えから、複雑な感情の流れを論理的に整理することに挑戦している。 モットーは Make the invisible visible 詳しい自己紹介はこちら