ずっと書きたかった愛情についてついに触れたい。
幸せになるためには、ある程度お金が必要だという意見に反対する人は少ないだろう。また、幸せになるためには愛情が必要だという意見も、おそらくあまり反対されないと思われる。
しかし、経済的な格差に対しては多くの人が深刻になるのに対して、愛情の格差にはほとんど誰も関心がないように見える。
私が思う愛情の格差とは、簡単に言うならば、一人一人が持つ愛情深さや、愛情を感じることができる器にあまりにも大きな差が出来ており、それによって幸せの実感にも大きな違いが生じているというということだ。
愛情の格差に注目されない理由として考えられるのは、愛情が定性的で、客観的には判定不能でわかりにくいものだからだと思われる。
この辺りをもう少しイメージしやすく、理解しやすい概念として考えることはできないだろうか。
一年中寒い場所における世界観
例えば、一年中最高気温が氷点下になるような、とてつもなく寒い地域があったとする。
そこでは、様々な自然の脅威、環境から来るリスクを避けて生存することに住民の意識が置かれているだろう。何しろ不用意に外出すれば、猛吹雪にあい、命の危険にさらされることもあるからだ。
さて、ここで質問だ。あなたが生まれてからずっとその地域に住んでいたとしたら、一年中温暖で温かい場所があるということを理解することはできるだろうか?
そんなの温かい地域の映像を見れば、たやすく理解できると思われるかも知れない。それならば条件を一つ追加しよう。温かい地域の映像や画像を視覚的に見ることができないとしたらどうだろう。
実際に温かい地域の住民があなたの地域でそれを説明したら、あなたは信じるだろうか。信じる人も信じられない人もいることと思う。
ちょうど、奇妙な儀式を行うアフリカの部族の話をされても、映像で確認しなければ、自分の実感とかけ離れていてピンとこないのと同じように。
知識としてもあまり理解が追いつかない人、知識としては理解できるが実感はない人に分かれるとしても、自分の人生の実感によるベースに全くないものをイメージするのが難しいことには変わりない。
さて、愛情においてもこれと同じような現象が身近で多発していることにお気づきだろうか。
コロナ離婚という現象に見る愛情格差
この世界的なコロナウイルスによる外出自粛の流れの中で、リモートワークが増え、夫婦ともに家にいる時間が大幅に増えた。その結果、一緒にいる中で価値観の違いや距離感を保てないストレスが大きくなり、離婚を考えるケースが出てきているという。
そうでなくても以前から「亭主元気で留守が良い」という流行語があったように、夫婦仲が円満というわけにはいかないというのが世の常とするような雰囲気がある。
1987年にスタートした第一生命のサラリーマン川柳では、ユーモアと風刺を用いた川柳が定番となっており、30年間の作品の中で歴代5位に選ばれた作品は「いい夫婦 今じゃどうでも いい夫婦」である。
このブラックユーモアが評価される背景には、夫婦関係の難しさがある程度共通認識になっているという前提がある。そうでなければ30年間で5位の作品にはならないだろう。
しかし、しかしだ。
少数かもしれないが確実に、コロナの影響で一緒に家にいられることを心から嬉しく思い、幸せを強く感じている夫婦も存在するのだ。
強い愛情で結びついていて、一緒じゃないと寂しくて仕方ないほどに愛情を分かち合っている夫婦が。何もなくてもお互いが存在するだけで幸せだと感じている夫婦が。
どちらの立場からしても、相手側の景色をイメージしにくいかもしれないが、実際にとてつもない格差が生じている。
愛情格差が生み出す悲劇
さて、それぞれが築いている関係性において、愛情に相当な格差があることを考えた。
しかし、愛情格差があることが問題ではない。問題は、極寒の地方の例で考えたように、格差を認識できないことだ。
先に考えたように、極寒の地域に住んでいる人は、視覚的に温かい地域を映像などで目にすれば、実感はなくとも温暖な地域の存在を理解はできるだろう。
しかし、愛情格差は視覚的に発見できるだろうか?それは簡単ではない。周りの人がそれぞれの家庭や友人とどれくらい愛情に満ちた関係を築いているかは目で見たからと言って簡単に判断はできない。
特に愛情をオープンにしたがらないのが我が国の特徴だし、冷えきった関係性だったとしても、それを周りに知られたいとは思わないだろう。
それならばどのように判断するのか?自分の学力が劣っていることはテストの点数を見ればわかる。自分が貧乏な層にいることは経済的な指標を見ればわかる。
同様に、自分がどの程度愛情に満ちた関係を周りと築いているか定量的な判断が下せるだろうか。それは極めて難しい。愛情に満たされているか否かは主観的な実感でしか決まらない。
客観的に理解できないとなると、恐ろしいことになる。人は自分がテストの点数が低いと知って努力をする、貧乏だと自覚して努力をする。
しかし、自分に愛情があるのかないのかは指標がなくてわからない。つまり、愛情に関して自分で必要性を感じて磨くのは難しいということになる。その上、親も先生も基本的に教えてはくれない。
そんなことに関心も抱かぬまま大人になったある日、自分の夫婦関係が悲惨であったり、心から分かり合える友人がいないことに気づいたとして、それは自分が人と愛情を築くことが出来ないからだと客観的に理解し、努力しようと思うだろうか。
そこまできて自分の非を認めるのは中々難しいだろう。かくして、自分が悪いのではなく自分がこれまで良い人に出会わなかったという解釈や、紹介したサラリーマン川柳のように、どこの夫婦も難しいに違いないという解釈で自分を守ることになる。
仕方ない。年齢が上がるにつれて、今更変われないという気持ちになるだろうし、自分が間違っていたなんて受け入れたくはない。
愛情について考える
幸せになるために愛情が必要だという多くの人が納得する前提があるにも関わらず、愛情が自分にあるのか、どう成長するのか、周りの人たちはどうなのか、そういう重要なことを私たちは理解していない。
『愛するということ』が世界的にベストセラーになったエーリッヒ・フロムは、愛する技術は先天的に備わっているものではなく、後天的に習得するものであると主張する。私も同意見だ。
この閉鎖的な社会の状況において、コロナ離婚を考え出す夫婦と、かえって幸せを噛み締める夫婦がいるという複雑さ。
今のような天災に見舞われるたびに、我々は自分の持っているものは儚く、いつ消えるかもわからない脆いものであることに気づく。
こういう状況の中だからこそ、愛について人々がもっと考えても良いのではないだろうか。
おそらく人生の最後に残るのは、自分が愛した関係と自分が愛された関係だけなのだから。
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