世界で最も強力な力は、愛と憎しみ(恨み)だと思っている。
愛の力は、時に自分の命を犠牲にしてでも愛する存在を守るほどの輝きを見せる。
憎しみや恨みは、時に大切な命さえも驚くほど簡単に奪ってしまう。
この全く対照的な2つの力のうち、ポジティブな愛の力の効力を発揮しやすい社会を作ることが、誰にとっても良いという主張に賛成しない人はいないはずだ。
しかし、実は資本主義社会と愛の相性は悪い。
社会心理学者のエーリッヒ・フロムにいたっては「資本主義を支えている原理と、愛の原理とは、両立しえない」とまで述べている。(1)
フロムの論点
フロムの主張の要点を整理してみると、次のようになる。
・資本主義以前の社会では、物の交換は権力や伝統、愛情や信頼などの個人的な絆に基づいていた。
・しかし、資本主義社会では、市場における交換が全てを支配する。絆ではなくお金だ。
・全てが商品で、お金と交換という市場のルールは、無条件の愛よりも、同じ条件で交換する(公平な交換)という黄金律を人間関係においても促進化する。
・また、多くの職業において、生産や消費を重視する精神が社会を支配する状況になったため、愛は二次的な現象に追い込まれている。
・教育の場でも、高い精神性を備えた人間が賞賛されることはなくなる。そして、本来は人を愛せる成熟した人間にしか教えられない愛の分野は伝達されなくなる。
・代わりに、教育は知識偏重になり、ビジネス界や政界の有力者などに注目が集まっていく。
・育っていく過程で、「人を愛せる人」「高潔な人」などに出会わなくなると、そういう人物像のイメージがそもそも持てなくなる上に、そうじゃなくても自分は正常だと判断するようになる。
まとめると、資本主義社会への変化が、無条件の愛よりも公平にこだわったギブアンドテイクを促進させ、人格的道徳的教育よりも知識偏重の教育を生み出し、結果的に愛の濃度や存在感がどんどん薄まっているという指摘だ。
愛と憎しみの違い
フロムはどうすれば愛することができる人間になっていくかという具体論にはあまり触れていないが、個人的にはひたすら愛する経験を積むしかないと思う。
例えば、生まれたばかりの赤ちゃんに対する母親と父親の感情は違うという話を耳にする。その場で初めて赤ちゃんという存在に対した父親に比べて、妊娠中からずっと赤ちゃんのために心身共に苦労し続けた母親は、赤ちゃんに対する愛情がすぐに流れるからだ。
自分の利益を顧みず、ある対象のために気持ちも行動も注いだ結果として愛が生じるようになる。これは筋トレのようなもので、一時的にはきついが、結果として実っていくような性質を持つと考えている。
それに対して、逆の力である憎しみや恨み。これはとても簡単だ。愛するのと違って何の努力も必要がない。誰だって簡単に人を嫌いになり憎むスイッチを入れられる。方法を教えてもらう必要もない。スキルを習得する必要もない。
滑り台を登る
子供の頃、公園で滑り台を下から登ろうとしたことはないだろうか。
私は何度もある。普通の遊び方に飽きてくると、ルールという枠にはまらず、自分なりの遊び方を創造するのが子供というものだ。
登る時、体重を滑り台の端の方に足をかけながら、慎重に登ろうとしないとあっという間に滑り落ちてしまう。下から助走をつけて一気に登るというのもよく用いられる方法だ。
愛と憎しみについて考えるならば、人間はまさに滑り台の坂の真ん中に立っているようなものだ思う。
人間関係で困難が生じた時に愛する選択肢を取るということは、滑り台の坂を真ん中から登っていくことと同じだ。愛するということは、相手を許すこと、相手を受け入れること、相手ではなく自分自身が変わることなどを必要とする。これはわざわざすべり台の坂を登っていくように、意識的に自分に負荷をかけて上を目指さなければできない。
一方で、同じように困難が生じても、相手を嫌い、憎む選択肢を取るということは、滑り台の坂を真ん中からそのまま滑るようなものだ。迷いなく相手が悪いと思って切り捨てるだけなのだ。滑り台に身を任せていればそのまま下っていくように、何の負荷もいらない。特に何かを意識しなければ自然に滑るようになっている。
それに加えて、滑り台を登ろうとしているあなたは筋肉痛で足が思うように動かない。なぜか?フロムの言った通り、現代社会において愛は二次的行為であり、すでに生産や消費(仕事や趣味)といった一時的な活動で体力を使い切っているからだ。
愛の道は中々に険しい。
滑り台の上から見る景色
しかし、高い滑り台の頂上からでないと見渡せない景色というものがある。人を愛する喜びの実感や、愛の成長による人間関係の充実というのは登ってみないと見えてこない景色なのだ。
登山家が、道中苦しい思いをしてたどり着いた山頂からの美しい景色に心酔し、また再び山に登るのと同じように。
山の頂上で味わう感覚は、知識では決して伝えられない。写真や映像でさえも限界がある。自ら実感しなければ決してわからない。
深く愛し合うとか、信頼し合うというのも同じように実感依存の世界だ。
実感依存というのは複雑な性質を持っていて、実感していない人からすると、それを実感することに価値があるのか非常にわかりづらい。愛ってそんなに大切なの?と考えるのは実感が弱い人にとっては自然だ。
おまけに今日では趣味の多様性が歴史上最大になっている。苦労しなければ見られない景色ならば特に見る必要がない、他にも楽しめるものはたくさんあるのだからと思う人も当然ながらたくさんいるだろう。
滑り台の例えの延長線上で語るならば、公園には他の遊具もあまりに充実している。確かに滑り台の上から見る景色はすごいのかもしれないが、そんなことは諦めて、さっさと滑り台を滑って、ブランコや砂場で遊ぶこともできるというわけだ。
愛情表現から憎しみの表現へ
キスカムという文化をご存知だろうか。
アメリカのプロスポーツのスタジアムで、ハーフタイムなどの休憩中、突如大型スクリーンに観客の中からカップルが映し出される。
注目を浴びたカップルは、他の観客によって何やら期待されている空気感の中でキスをする。キスをすると拍手や口笛などの喝采を浴び、大いに盛り上がる。アメリカンスポーツの文化だ。
日本人だと恥ずかしくて無理と思う人も多いのかもしれないが、私個人としては、このキスカムの文化が大好きだ。
これに限らず、アメリカには愛情表現にこだわりがあるようで、アメリカンドラマや映画では、家族愛は定番中の定番。オフィスでも、自分のデスクに家族の写真が置いてあるシーンを見たことがある人は多いのではないだろうか。
また、世界最大のキリスト教国家であるアメリカだが、キリスト教の教えの根本もやはり愛であり、例えば、ボランティアは非常に盛んで、ホームレスに食べものやお金を渡す光景はどこででも見られる。
しかし、ご存知の通り現在のアメリカは憎しみに満ちている。
昨年話題になり続けた黒人をめぐる人種差別問題や、選挙をめぐるトランプ支持者とアンチの闘争など、激しい憎しみや怒りが渦巻いた結果、分断は取り返しのつかないレベルまで増幅しており、この世界一の強大国は、愛から憎しみへと再び舵を切っているように見える。
最近まで続いたトランプ支持者とアンチの激突の舞台は、SNS上から国会議事堂まで多岐に及んだ。
個人的にもアメリカ情勢には非常に関心があり、いろんなルートで情報を収集したが、最終的にどちらの陣営が正しいか、どの情報が正しいかは私には全くわからなかった。
私が唯一わかったのは、両陣営が信じられないほどに憎しみ合っているということだけだった。
キング牧師の夢の果て
数年前にアメリカで旅をしていた時、私はニューヨークから南部の方へ少しずつ移動していた。その途中で立ち寄ったのがメンフィスという街。この街でいつものようにマクドナルドに入ると、周りが明らかに黒人ばかりだということに気づいた。
ここは1960年代に黒人の公民権運動の渦中にあった街であり、キング牧師が暗殺された地でもあったのだ。暗殺されたモーテルは記念館になっており、そこに立ち寄って歴史に想いを馳せた。
実はキング牧師は、公民権運動において、活動の目的は白人を打倒することでも貶めることでもないということを強調していた。白人を敵視してしまえば、暴力的な制御不能な運動になってしまう。彼はそれを恐れていた。
“I have a dream.” から始まるあの有名なスピーチにも、その夢の一つに「ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちと奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルに着く」という内容が出てくる。
彼の動機は白人への恨みや憎しみではなく、黒人への愛だった。
その夢は現代において叶ったのだろうか?キング牧師の夢の続きを見てみよう。
実は、現在そのジョージア州の田舎町で、黒人だけの町を建設するプロジェクトが立ち上がっている。(2)
町の名前は「フリーダム」。人種差別から解放された、安全な町を作るというのがその目的のようだ。
黒人の家庭では、子供たちに警察の前での振る舞い方を教えなければいけないくらい、警察から標的にされているという意識が強い。昨年のジョージ・フロイドの一件から一気に燃え上がった Black Lives Matter は完全に町そのものを分断するという流れにまでたどり着いた。
2021年春から建設を予定しているこのプロジェクトは、学校や農場から、レストランやホテルに至るまで大規模な計画があり、賛同者も多く、彼らの理想郷実現に燃えている。
事情が複雑なので、安易に善悪を論じるつもりはないが、一つだけ確かなのは、キング牧師の夢が本当の意味で叶うのは、まだまだ先になりそうだということだ。
キング牧師が白人との共存を夢見たジョージアの地は、50年以上の時を経て、皮肉にも白人との分断の象徴として生まれ変わろうとしていた。
この一件に限らず、相手を理解しよう、受け入れようという愛の濃度が薄まれば、さらに世界中で分断は加速する。
愛よりも憎しみを選ぶことが習慣になった世界は、これからどこにたどり着くのだろう。
参考・引用
(1)エーリッヒ・フロム『愛するということ』紀伊國屋書店、2020年
(2)https://courrier.jp/news/archives/228280/
こんばんは。
毒親育ちの家庭内での躾、学校における賞罰教育……
自分が恐ろしい道筋をたどってきたことに
今更ながら身震いさせられます。
なにせ親にとって都合のいい人間に育てられたので、
自分を尊重する方法がわからず、
他人を愛する方法も正直わかりません。
人間関係の最前線は「自分自身」だそうです。
私はおそらく一生をかけて
自分を立て直さなくてはならないのだと考えています。
こんな悲劇が少しでも減ってくれるといいのですが。
知識と道徳とのバランスが取れた社会になってほしいですね。
教育の目的が「子供の幸せ」というよりも、「親の満足」「子供を優秀にする」みたいな感じですもんね…。
教育に関する様々な議論も、「どうやったら良い学校に入れるか」「どうやったら言うことを聞くか」みたいな内容ばかりで、「どうやったら子供が幸せになるか」という観点で話している人を今まで見たことがありません。本当に深い闇が教育にはありますよね。私も微力ながら、何か社会の力になれないかと日々考えています。