愛とはどうあるべきなのかについて悩んでいた。ずっとモヤモヤしていた。違和感を払拭できずにいた。
きっかけはアメリカの有名な心理学者、アダム・グラントのギブアンドテイク論だ。この理論がはたして美しいのかどうかという部分に、私はずっと引っかかっていた。
当ブログでも何度か紹介したことがあるその理論は、簡潔にまとめるならば次のようなものだ。
人間関係におけるギブアンドテイクの流れから見た時に、大まかに3種類のタイプの人がいる。
ギバー は自分よりが受けるよりも、相手に多く与えようとする人。
テイカーは相手に与えるよりも、自分が多く受けようとする人。
マッチャーは相手に合わせてバランスを取る人。等価交換、公平を重視する。
さて、ギバーはその性質上、テイカーにまでギブし続けた結果、テイカーに一方的に搾取される構図になることがある。確かにお互いの態度が変わらなければ自然とそうなってしまう。
尽くし続けたが相手は変わらないどころか、かえって依存や寄生のような泥沼にはまり込む経験をしたギバーが、ビジネスから恋愛まで様々なシチュエーションで存在することだろう。
そこで、アダム・グラントは著書『GIVE&TAKE 「与える人」こそ成功する時代』の中で、ギバーはテイカーに対してマッチャー的な態度をとる、いわばしっぺ返し戦略を勧めている。(1)
つまり、基本的にはギバーとして接するが、相手がテイカーだとわかった瞬間に自衛のためにマッチャーとなり、相手にしっぺ返しを食らわせるという対応だ。(ただし、時々は多めに見ることが必要だとも述べている。)
確かにこの戦略を実行すれば、いつも自己犠牲的になってしまうギバーがテイカーから搾取される機会は減りそうだ。
この理論を最初に見た時、確かに「正しい理論」なんだろうと思った。効率的で、実践的で。しかし「美しい理論」なのかという点で、私は違和感が消えず、心からの納得ができずに今日まできてしまった。
その理由は愛という観点と結びついているのだが、なんとなく整理できたので、まとめてみようと思う。
歴史的な反例
普段はギバーだが、テイカーにだけはマッチャーとして振る舞う。
言い換えれば、ギブするという愛情は素晴らしいが、恩を仇で返すような人に対しては、ギブではなく仕返しが必要だということ。
どう見ても合理的なその戦略になぜ違和感を感じたのか。
その理由は、この戦略を使うことなく、テイカーに対しても一切しっぺ返しをせずにギブし続けたことにより、世界中の誰もが知る偉人になった存在がいるからだ。
その人物の人生が書かれた本は、歴史上一番売れた本であり、その人物は現在世界の20億人以上に特別視されている。
そう、イエス・キリストだ。
新約聖書を読んだことがある人ならばご存知だと思うが、イエス・キリストの物語は、超絶的なギバーであるイエス・キリストが、自分のことしか考えていないテイカーである弟子たちから裏切られながらもギブし続け、最終的に弟子たちをテイカーからギバーへと変貌させてしまうストーリーだ。
弟子たちの振る舞いは、イエスが一緒に祈って欲しいと言えば眠りこけ、都合が悪くなるとイエスを知らないと言って逃げ出すというひどい有様だったが、最終的には人格が完全に変わってしまい、殉教してでもイエスの愛を広めようと活動した。まさにコペルニクス的転回を遂げた。
イエスの物語は、自らの十字架上においても、弟子たちや自分を迫害してきた人たちに最後までギブしようとし続けたことにその美しさがあり、イエスがしっぺ返し戦略を取っていたならば、キリスト教は間違いなく存在していない。
そうなると、欧米の文明が根本的に今日と違うものとなり、完全な別世界になっていたはずだ。
おっと、もちろんアダム・グラントの理論はビジネスという文脈で語られたものであり、私生活での人間関係を考慮に入れていない可能性は大いにある。
そもそも、私は彼の理論が正しいか間違っているかという議論をするつもりは全くない。ギブし続けてテイカーである相手が変わる可能性もあれば、全く変わらずに騙されてしまう両方の可能性があるからだ。
しかし、どんなテイカーでもギバーに変えてしまうのが愛であり、それゆえに愛は美しいという一点に私はどうしても注目したい。
赤ちゃんという最強のテイカー
誰々がギバーだテイカーだとラベリングすることは、人を善悪で差別することを容易にする。
ギバーに悪いイメージはないし、テイカーに良いイメージは全くない。
しかし、赤ちゃんや幼児のことを考えてみて欲しい。我々は間違いなくテイカーとしてこの地に生まれる。
赤ちゃんや幼児は基本的に自分の満足のために行動するし、何度親からのギブを受けてもテイカーでい続ける。
もし親が、子供がいつまでたっても自分のギブを利用するばかりだと感じて、子供に対してしっぺ返し戦略を取るようになったら、そもそも教育は成り立たない。そういう親は毒親と呼ばれる。
確かに状況に応じて躾は必要かもしれないが、少なくとも教育において世界の中で有数の実績を上げているユダヤ人の教育を見ると、しっぺ返し戦略とは程遠く、どちらかというと親のギバーとしての凄さが際立つ。(この辺りは以前書いた記事に詳しいので説明は割愛する。)
親が教育に実に長い年月をかけた結果、子供は大人になり、テイカーを卒業する人も現れてくる。
もしかしたら、教育というのはギバーとなった親がテイカーである子供をギバーへと成長させることを言うのかもしれない。
だがそう考えると、教育というハードルが極端に上がる。親になる必要条件がギバーであるということになるからだ。
実際は、親はマッチャーやテイカーであることも多く、その影響を受けて子供がギバーにならないという負の連鎖を、我々は数万年レベルで繰り返しているように思う。
そもそも個人においても、機嫌が悪かったり、不幸なことが続くようだと我々は容易にテイカーになる。テイカーはそこら中に溢れている。
テイカーが多い社会で本質的に必要なメッセージは「テイカーに気をつけろ」よりも「テイカーをどうギバーにしていくか」という教育的な観点だと思うのだがどうだろうか。
少なくとも、自衛目的の「テイカーへの対応の仕方」がテイカーをギバーに変えることはないように思える。あってマッチャーだ。
プレヒストリーという概念
2020年に読んだ本の中でも個人的に1,2を争うほど印象的だった本に『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』がある。筆者の近内悠太さん曰く「愛という言葉を使わずに愛について論じた本」だ。(2)
近内さんの述べる「プレヒストリー」という概念が私はとても好きなので少し紹介したい。
プレヒストリーにもとづく返礼としての贈与であるならば、他人に何を言われようがやりたいようにやればいい。
そして、プレヒストリーなき贈与は必ず披露します。トレバー少年がそうなったように、その贈与は悲劇を生みます。それを「自己犠牲」といいます。
多くの人が贈与を恐れる理由はおそらくここにあります。見返りを求めない贈与は自己犠牲ではないのか、と。「誰かのために尽くしたり、献身的になることはたしかに美徳かもしれない。だが、それでは自分がどんどん疲弊していくだけではないのか?」というような恐れです。
ですが、すでに受け取ったものに対する返礼であるのならば、それは自己犠牲にはなりません。
それが過去の負い目にもとづくものであるならば、それは正しく贈与になるだけの力があるはずです。
結局、贈与になるか偽善になるか、あるいは自己犠牲になるかは、それ以前に贈与をすでに受け取っているか否かによるのです。
贈与は、受け取ることなく開始することはできない。
贈与は返礼として始まる。
引用の中のトレバー少年というのは、『ペイ・フォワード』という映画の主人公のこと。この作品に対する解釈も、近内さんの切れ味は鋭いので、ストーリーにも多少触れておきたい。
『ペイ・フォワード』の主人公のトレバー少年は中学1年生。学校の社会の授業で、先生から「もし自分の手で世界を変えたいと思ったら、何をするか?」という課題を出され、「ペイフォワード運動」を思いつく。
それは、自分が誰かから受けた思いやりを、別の相手3人に返すという行動を連鎖的に広げていくというものだった。
最終的に爆発的な広がりを見せた「ペイフォワード運動」は記者であるクリスの元に届き、クリスはその出発点を辿りトレバー少年にまでたどり着く。
しかし、クリスがトレバー少年にインタビューした後、学校のいじめっ子によるいじめを止めようとしたトレバー少年はナイフで刺されて死んでしまう。
衝撃的なストーリーだ。
世間的にはこの結末に賛否両論が激しく巻き起こり、ギブの力で世界を変えようとした無垢な少年の犠牲に対して当然ながら納得いかないという意見も散見する。
だが、前述の近内さんによると、この結末は残念ながら妥当な結果だという。
実は、トレバー少年は贈与を受け取ることなく贈与を開始していた。彼の母親はアルコール依存症で、父親は家庭内暴力を振るっており、彼は愛情とかけ離れた寂しい環境で暮らしていた。
つまり、贈与を生み出すための「被贈与の負い目」、言い換えればプレヒストリーを持たなかったのだ。
その贈与を生み出すための力の空白をトレバー少年の命を持って埋め合わせた。それは贈与論的に極めて正しい結末だという。
プレヒストリー無きギブ
カウンセリングで多くの人を見てきて思うのは、ギバーの振る舞いをする人にも明らかに2種類の傾向がある。
1つ目は、自分が今まで愛されてきたという実感が強いゆえに、愛されていないように見える人を放っておくことができないというタイプ。自分の中のコップの水が溢れ出していて周りに水を注ぎ込んでいるようなイメージの人だ。
近内さんの贈与論の観点から言うと、まさにプレヒストリーがしっかりしており、誰かから受けた負い目を返そうと自分が贈与する側に回っているような人だ。
このタイプの人は、自分というコップの中に注がれる水が溢れ出して周りに水を供給しているような構図になるため、自己犠牲感がなく無理がない。周りが犠牲のように思っていても本人はそう感じていない。
本人の動機は極めて衝動的なものだ。
もう1つのタイプは自分というコップに水が溜まっていない人たちだ。彼らが他人にギブするのは、周りとの調和を築くためだったり、よく見られようとするためだったり、そうしなきゃいけないと思い込んでいるからだったりと色々な動機がある。
しかし何か違うのは、前者のタイプが衝動的なギブをしているのに対し、こちらのタイプは義務的にギブしている感じがつきまとうことだ。何か無理をしている感じが拭えない。
自分のコップに水があまり入っていないのに、周りのコップに水を注げば当然自分のコップはどこかで空になる。そうなると、水が入っていないゆえの苦しさや不満を感じるのは残念ながら時間の問題だ。
結果、最終的に我慢していた感情が爆発したり、鬱っぽくなってしまうのを見てきた。
そう、彼らのギブはプレヒストリーなきギブだったのだ。そういう意味で、トレバー少年の贈与の失敗が必然だったという近内さんの理論は、私がこれまで見てきた人たちを想起させた。
プレヒストリーなきギブは、確かに瓦解しやすかった。
プレヒストリーをどう呼び起こすのか
さらに言うと、上記の2種類のギバーについて私が思うのは、コップの水が溢れている人は実はほとんどいないのではないかということだ。
良き家庭環境の中でまっすぐに愛を受け、親には感謝の気持ちしかないという人ばかりではない。良き恩師や先輩に出会って人生が好転した人ばかりではないのだ。
残念ながら多くの人には、明確な水源がなく、確固たるプレヒストリーは存在しない。だから我々は承認欲求を抑えられずにテイカーとなる。
そういう意味で、私はテイカーを非難することや、テイカーに一時的にどう対処するかということよりも、誰もがプレヒストリーに出会う経験をいかにすることが出来るかという部分が大切になると思っている。
自分が恵まれて、愛されて存在していることを実感できるような仕組みはできないものだろうかと考えずにはいられない。
愛とAI
ニューヨークのビジネスメディア、ファストカンパニー紙において、先月、興味深い記事が投稿された。
仕事におけるメンタルヘルスの領域が、既にAI化しつつあるという衝撃の内容だ。(3)
Oracle社とWorkplace Intelligence社によるグローバルな規模での労働に関する共同研究によると、80%の労働者はロボットをカウンセラーやセラピストとして利用することに抵抗がないと感じていて、68%の労働者は仕事上のストレスや不安を上司よりもロボットに相談したいと思っているという。(4)
この研究が対象としているのは11カ国であり、日本が含まれているかは探しきれなかったが、読めば読むほど、世界的な流れとしてはメンタルヘルスの問題はAIに委託するという方向性がありありと示されている記事だ。
悲しみが襲ってくる。
私は決してメンタルヘルスをAIに委ねてはいけないと思っているわけではない。また、コロナ禍で仕事のストレス自体がこれまでにないくらい大きくなっていたとしても不思議ではないという点も理解しているつもりだ。
しかし、これは人類の敗北だと思うのだ。
悩みを共有したり、不安を分かち合うのは極めて人間的な感情面の領域だ。言い換えれば愛の分野だ。現代の高性能なAIですら持ち得ないのが愛という感情だ。
その分野を上司よりもロボットに委託するというのであれば、我々は認めざるを得ない。
人類は経済成長や科学技術の進歩には投資してきたが、愛し合うことや許し合う能力に関しては驚くほど投資してこなかったのだと。
やがて、ロボットの恋人を持ちロボットと結婚し、人間同士の愛情の持つ光はさらに輝きを失うのだろうか。
これだけの発展を遂げながら、誰もがプレヒストリーを掴み、ギバーが溢れる社会にすることは出来ないのか。
一番最初に述べた、違和感の正体について振り返る。
テイカーにしっぺ返しをするギバーの振る舞いがどうしても美しく思えなかったのは、テイカーに対してさえもギブし続けて相手を変えてしまったイエス・キリストのあり方を美しいと思ったからだし、親が子供を教育すること自体も自分のギブを持って子供というテイカーをギバーに変えていく営みだとなんとなく感じていたからだ。
愛の持つ力はそれほどまでに強く、人を変える力があるから、ビジネス上の文脈とはいえ、テイカーにしっぺ返しすることを強調することが正しいと思いながらもどうしても美しいとは思えなかった。
願わくば、悩みや不安、ストレスを抱えた難しい相談をAIではなく、人間同士で解決できるような未来を考えたい。愛というのはそれを可能にする力だと思うからこそ、私は悔しく思う。
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参考・引用
(1)アダム・グラント『GIVE &TAKE 「与える人」こそ成功する時代』三笠書房、2014年
(2)近内悠太『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』2020年、NewsPicks
(3)https://www.fastcompany.com/90580177/mental-health-crisis-robots/
(4)https://www.oracle.com/human-capital-management/ai-at-work/
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