約500年前から描かれてきたユートピア文学では様々な理想郷が描かれてきたが、今日の科学技術からなる利便性という意味での豊かさは、過去に描かれた理想が霞むほどに洗練されている。
週末に行くレストランの予約から、新しいパソコンの購入、自分の地域にはない銀行への振込、地球の反対側にいる人とゲームをリアルタイムで対戦することまで、我々は立つことはおろか声を発することさえも必要とせずに出来るようになった。するべきことは唯一、スマホを持って指を動かすことだけだ。
ユートピア文学の作者に、未来はこういう世界が来ると生前に説明したら、はたして信じてもらえただろうか?
ただし、上記のような行動は誰でも出来るわけではない。私はたまに年配の方に基礎的なパソコンの使い方を聞かれることがある。それこそ右クリックの使い方や、ダウンロードしたファイルの保存先はどこなのかという初歩的なものなのだが、むしろそういうことを今から学ぼうという高齢者はどちらかというと少数派で、もう今更学ぶ気はないという人の方が多いように感じている。
このネットリテラシーにはびっくりするほどの年齢層による断層がある。1つ興味深い例を紹介したい。
分断をもたらした科学
ネットリテラシーのある人を前提にしたサービスというのは、基本的に連絡はメールで行われる。例えば、このサイトを運営するにあたり、サーバーと契約をしているが、その契約更新に関する連絡は全てメールだ。そのメールを見逃して契約の更新を怠ってしまえば、このサイトは消滅する。
実はそうなりかけたことが一度あるが、その時私は、自分のミスでそうなったと認識した。更新のタイミングに関する重要なメールを見逃していたのは自分のなのだからと。
しかし、これが高齢者の利用者が多いサービスになると話が完全に変わってくる。メールを使っていないのだ!
想像してほしい。あなたの会社が高齢者向けの商品を扱っており、毎月郵送しているとする。そして、会社の都合で配達日を変更することを全てのお客さんに知らせる必要が生じてしまった。さて、どうする?
私の契約しているサーバーの会社であれば、そういった連絡は1通のメールを全員に送信すれば終了だ。10分もかからないだろう。しかし、高齢者向けの商品ではメールは意味をなさない。もちろんWebサイトに表示したところで意味はない。取れる手段は電話を使うかパンフレットなどを作って郵送するしかない。
電話連絡はとてつもなく手間がかかる。何しろ相手にいつ繋がるかわからないのだ。業務を自分のペースで終了させることなど全くできない上に、そもそも全員にちゃんと連絡が行き渡るまでどれくらい時間がかかるのか予想さえできない。
郵送はシステムができれば楽ではあるが、コストは確実にかかる。メールで済めば1円もかからないはずの連絡のコストが、顧客の数が多ければ多いほど無視できない額になってしまう。
こういうネットリテラシーのギャップで一番苦しんでそうなのは、主に高齢者を相手にする病院や、全市民を相手にする市役所なんだろうなーと思う。なぜいまだにFAXやハンコを使っていて、IT化がそんなに遅れているのかという意見がよく取り上げられるが、その大きな理由の1つは、役所だけではなく市民のITリテラシーのギャップがあまりにも大きいことなのではないだろうか。
そういう現象を見ながら、特に歳をとるにつれて学び直そうとしない日本の文化に残念な気持ちを覚えたこともあった。しかし、違う見方をすれば、それほどにまで短期間に驚異的なほどに科学が進歩したということでもある。
さて、そんなにも科学が進歩したのだから人間は精神的にも豊かになったに違いない。きっと。
豊かになる生活環境、病んでいく精神
WHO(世界保健機関)によると、現代において、うつ病は10代の若者にとって最大の健康問題になっており、2030年には世界の病気の第1位になる見込みだという。(1)
物質的に豊かになったことで人類は幸せを手にしたかと思えば、全くそうではなかったらしい。
厚生労働省が行なった、精神疾患の患者数の推移に関する統計を見ても、うつ病を含む気分障害の患者数は2002年から2017年までに約1.8倍にまで増えている。(2)
うつ病の定義自体が時代によってアップデートされているため、昔と比べてうつ病患者が増えていると一概には言えない部分もあるが、減っているとはとても言える状況になく、一般論としては増えていると考えるのが自然だ。
しかも、精神科に行ったところで簡単に解決するわけではない。薬の効果で感情を感じないようにさせられ、症状を抑えるという本質的な解決から程遠い対処をされることもある。
それなら病んでいく精神に対してもっといい療法を編み出すべきだろうか?
それは確立するに越したことにはないだろうし、今も多くの研究が進んでいるのだろうが、そもそもこんなに豊かな社会でなぜ人々が次々に病んでいくのかという原因について、まだあまり焦点が当たっていないように見える。
深掘りすると、我々の心は本当は何を求めているのか、自分でもわかっていないし、社会全体としてもその理想像を描ききれていないのが現状だ。現代社会には憧れが決定的に欠けている。
汚物にまみれたパリ
芸術的で美しい花の都パリは、歴史的には強烈な悪臭が漂う街だったという話は割と有名だ。
トイレを軽視してきたパリの街は、17世紀になっても個人の家にほとんどトイレがなく、人々は汚物を街路に投げ続けた。貴族の家でさえそうだったため、街中がひどく臭っていたという。
その後も問題はなかなか解決せず、女性用の公衆トイレが誕生したのは20世紀になってからだというから驚きだ。
現代人からすると、自分がそのような環境に適応するのは絶対に不可能と思えるほどに悲惨な状況だった。現代におけるどんなゴミ屋敷でも、当時のパリよりははるかに清潔で衛生的だろう。
しかし、彼らの課題の原因は少なくとも明確だった。衛生環境が悪いのは、日が暮れて街が暗くなると、糞尿を街路に誰もが捨てにいくからだと理解していた。
それに対して現代はどうだろう。若者がどんどん精神を病んでいくにも関わらず、その原因さえつかめていない。せいぜい発症した人をなんとかする仕組みを作るので精一杯だ。
つまり、現代はある意味、糞尿まみれだった17世紀のパリよりもひどい。言ってしまえば、汚物は街に全くないのに凄まじい悪臭を放っているような状況なのだ。原因がわからないので手が施せない。とりあえず芳香剤でも買っとこうかというのが現代社会だ。
誰も病んでいない社会が到来するとするならば、それは今よりも多くの幸福が溢れる理想的な社会なのだろうなーと思う。
我々は残念ながら外れのあみだくじに突っ込んだようだ。科学や経済の発展を遂げたら豊かになるというのは完全に外れだった。もちろんこれまでの成果は大切にしつつも、そろそろ違う観点で答えを探しにいく必要がありそうだ。
参考・引用
(1)https://apps.who.int/iris/bitstream/handle/10665/112750/WHO_FWC_MCA_14.05_eng.pdf?sequence=1
(2)https://www.mhlw.go.jp/kokoro/speciality/data.html
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