もしこの世界で、年齢と学歴と肩書きの3つを伏せて人に接するような社会実験が行われたとしたら、人は他人を判断するにおいて何を基準にするのだろうか。そのことについて数年前からずっと考えていた。
確かにカテゴリー分けやタグ付けは便利だし、パターン認識の機能は人間が日々の生活を効率的に生きるためにはなくてはならないものだということはわかる。しかし、年齢や学歴や肩書きはその人そのものを理解する上で妨げになることも多い。
最近、中学生がブログなどをビジネス展開し結構な額を稼いでいることが話題になっている。それと共に、その中学生のアドバイスを受けることにとてもネガティブな大人たちのコメントがSNS上に散見している。曰く、中学生にそそのかされて何やってんだ…とのこと。
私自身としては、ダメな大人よりは優秀な中学生からアドバイスを受けたいのだが多くの人にとって、どうやらそうではないらしい。本質は年齢に関係なくアドバイスの質だと思うのだが、年齢が若いとフィルターで自動的に弾かれる。残念だなぁと思う反面、年功序列が支配してきた日本において、こういう意見が出てくること自体はおそらく自然なことだ。
発言の本質が年齢によって決まるのであれば、年齢というフィルターを通して判断するのは正しいが、客観的に考えればそうでないことを誰もが知っている。成熟した人格を持つ達観した若者もいれば、子供のようにわがままばかり言う老人もいる。
もちろん、年配の方を敬うべきではないとか、年上であることに何の意味もないとかそういう極端なことが言いたいわけではない。年齢や肩書きや学歴などの先入観で人を判断するのは、本質を見失う可能性が高いということが言いたいだけだ。
タグ付けからくる先入観
先日、美術館で絵画を鑑賞している時に、自分の絵画の鑑賞法はマズいということに気づいた。作品をじっくり見る前に、誰がいつ描いた絵なのかという説明の部分を先に見てしまうのだ。知的好奇心が強く、どうしても見たくはなるのだが、これは非常に問題だった。
なぜなら、先入観というバイアスがかかった状態で絵画を判断するからだ。説明も何も見ずにじっくり見た絵に対して「うーん。なんだか自分にはピンとこない絵だな」と感じたとしても、もし作者の名はピカソだという説明を先に見ていた場合には「この描き方はさすがピカソ!」という感想に容易になってしまうのだ。
それはあたかも、偉そうに社会情勢に関する持論を述べ続ける中年男性に対して、その人が大学教授だと知らなければ、上から目線の嫌な感じのおっさんだなという印象しか抱かない場合にも、大学教授と知ってその話を聞くと、さすがによく勉強していらっしゃるなと変換されるのと同じだ。しかし、絵もおっさんもいずれにせよ一緒なのだ。変わってしまうのはこちらの見方だ。
分類による先入観は人間以外にも波及する。フランスでは蝶と蛾の区別はなく、同じくパピヨンと呼ばれるようだ。私たち日本人は蝶は美しく、蛾は美しくないという先入観を持っているが、フランスのように言葉による区別がなければ、蛾と認識している生物を美しいと感じるのだろうか。少なくとも今のように美しくない生物とは感じないかもしれない。
また、逆のケースも存在する。日本語ではねずみと呼ばれる生物が、英語では比較的小型のマウス、大型のラットと分けて呼ばれている。英語圏におけるマウスは某有名キャラクターにも使われているように、小さくて可愛い動物というイメージがあり、ラットは汚いイメージがあるという。
実際に生態を調べてみると、マウスの尿が臭いのに対して、ラットの尿はほとんど臭わないとか。完全に英語圏のイメージと逆である。そのイメージが実際と合わないのは、我々日本人がネズミを大きい小さいで可愛いとか汚いとかをあまり判断していないところからもわかるのではないだろうか。
そう考えると、蛾が美しくないというのは日本人だけの先入観からくる勘違いなのかもしれない。
裕福な人とは?
我々が誰かに対して「成功」という言葉を使う時、一般的に肩書きなどの社会的地位に関連づけて考える。また、「裕福」という言葉を使うならば、それはほとんど経済的な意味だ。しかし、裕福さを全く違う観点で定義した人たちがかつて存在した。
欲求階層説で日本でも有名なアブラハム・マズローは、若き日に、ブラックフット・インディアンと呼ばれる北アメリカの先住民族に関するフィールドワークを行った。(1)
彼らを理解する上で、まず一番裕福な人物に話を聞こうとしたマズローは、家畜を一番多く所有している男を見つけたが、なぜか他の人たちはその男のことを、裕福でもなんでもないと主張した。実は、裕福の定義が全く違ったのだ。
ブラックフット・インディアンは、1年に1度、その年に働いて蓄積した財産を他の人々に分け与える儀式を行う。そして、最も財産を分け与えたものが尊敬を集め、部族の富裕者となり、分け与えずに自分に財を溜め込むものは蔑視の対象になるという。
最も財をため込んだものが富裕者となる現代社会とは逆のシステムに、マズローは衝撃を受けてしまった。この社会では、たくさん分け与えた結果、尊敬を集め富裕者となる側も、財を分け与えらえれた側も両方が幸せになるのだ。しかも、分け与える側の自由意志によって、である。
分け与えた結果、財が無くなっても裕福とみなされるという価値観は、人に対する見方が現代とはあまりにも違う。現代では、一切分け与えなくても財が多い人が成功者であり富裕者だ。
新たなプロフィールを求めて
冒頭に述べたような、年齢や肩書きや学歴を非公開にしていった場合は、このブラックフット・インディアンのような社会になるのだろうか。それとも全く違う変化が起きるのだろうか。
いずれにせよ、現在主に使われている枠組みは物事の本質から逸脱しやすい性質を持っていると感じている。何しろ、年齢や肩書きや学歴はリタイア後にあまり意味をなさないはずだ。仕事中心の価値観の中でこそ意味がある。また、もっと切り込んで言えば、人間性とは全く関係がない。仮面のようなものだ。
日本の有名人のツイッターのプロフィールを見ると、ほとんどの場合、肩書きやこれまでの成果が書かれている。自分のSNSやウェブサイトのリンクだけ書いてあることもある。ところが海外には面白いプロフィールが多数存在する。
例えば、かの有名なバラク・オバマ元大統領。
プロフィールには Dad,husband,President,citizen. とだけ書かれている。シンプルながら、とても家族愛を感じる内容だ。家族の一員としてのアイデンティティを大切にしていることがうかがえる。
続いて、テスラやスペースXの共同設立者として有名なイーロンマスク。
プロフィールには、ロケットと太陽と車の絵文字。それだけだ。肩書きではなく、ただ宇宙開発や太陽光、自動車という分野が好きなのが伝わってくる表現だ。
自分自身をどんな人間と伝え、人をどのように判断するか。一度既存の枠組みを取り払ってみても面白い。そうでないと見えないものがある。そんな気がしている。
マズロー心理学入門: 人間性心理学の源流を求めて (FLoW ePublication) Kindle版
参考・引用
(1)中野明『マズロー心理学入門:人間性心理学の源流を求めて』FLoW ePublication、2016年
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