嫌いなものが多いという事実は強みに十分なりうる。その思いが強くなってきたので備忘録を兼ねてまとめます。
日本のように、嫌いなものは嫌いだと主張しにくい環境で、嫌いなものが多いということは、そもそもその人の中に明確な価値観やセンスの軸が備わっているはず。それならば、嫌いなものが多いということは美意識や信念の強さにおいて光るものがある可能性が高いというのが今回の仮説です。
もちろんそういった尖った感性をどう活かすかはその人次第ですし、ただの面倒な人に映るだけかもしれません。ただ、そういう人は恐らく自分の人生を自分の目で捉えています。他人の人生を生きていません。
日本語の「嫌い」という言葉にはネガティブな垢が染みついていて、良くないイメージがどうしても先行します。嫌いなものが多いという生き方を貫くために、どのようなハードルがあるのかを現実的に考えると、嫌いなものが多いと主張する難しさが見えてきます。
好き嫌いは甘え
例えば、好き嫌いは甘えと判断されるケースです。私たちは幼い頃から食べ物の好き嫌いはよくないと教育され、学校では嫌いな教科にも多くの時間を割いて克服するように促され、社会人になってからは嫌いな仕事もこなして当たり前と判断されました。時に「嫌い」という言葉は「甘え」という概念に変換され、私たちに嫌いなものをなくし、大人になるように迫ってきます。
このような環境において、嫌いという意思表示をすることは、圧力がかかり難しいですし、下手すると問題児として認定されます。
カウンセリングをやっていると、本当は嫌いだったことが周囲から期待されることだったために、自分の本当の気持ちを押しつぶしてやり続ける現象が見られます。極端な場合は、嫌いを半ば無理やり自己暗示的に好きに変換するのも見てきました。
人気のある何かが嫌い
また、人気のあるものに嫌いと意思表示すると事故が起こり兼ねません。同調圧力が強い中でそんなことを主張してしまうと、一瞬で集中砲火に遭う可能性があります。
私は大学生の女性に、「ディズニーが好きじゃない」と口にした瞬間に人格を否定された挙句に、将来の奥さんがかわいそうとまで言われたことがあります。地雷を見抜けませんでした。
もちろん私の言い方に問題があった可能性はありますが、自分としては感情的な言い方でも自論を押し通すような言い方でもなかったので、その時の驚きを今でも覚えています。
ディズニーや国民的アイドルグループを敵に回すのはやや危険が伴いますが、その点、ゴキブリならば嫌いと主張しても何も問題になりません。人気のないものならなんとも思われないからです。
感情を分析するならば、趣味の好き嫌いなどは誰がどう思おうと自由なはずです。しかし、自分が好きなものが否定されると、自分自身が否定されたと感じる人が多い。その上、人気があるものだと、みんな好きで当然だというフィルターまでかかっており、さらに複雑化するのがこのケースでしょう。
本当は、自分と自分が好きなものは全く別です。私が愛するポメラニアンを友人が嫌いだったとしても、友人は私のことが嫌いなわけじゃないのです。しかし、何かが強烈に好きという感情は、この事実を曇らせます。
また、男性的な人に多いですが、自分の好きなものを嫌いと言われることで嫌な気持ちになり、それは正しくないと論理的に説明しようとしてくる人もいます。好き嫌いは直感的な要素も大きいので、論理性の問題じゃないことも多いのですが、好き嫌いと正しい正しくないを混同してしまう。
自分の中の声
さて、これだけ嫌いと思いづらい、言いづらい環境で、嫌いなものが多いというのは逆に強いと思われます。
もちろん、人を嫌いになる必要はないですし、何かが嫌いなことを周りに声高に主張する必要はないと思います。しかし、自分の中の、これは嫌いだ(好きだ)という感覚をたくさん拾えることができるならば、その人の行動は何らかの意味を生み出すきっかけになるのではないでしょうか。
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