天才は殺される前に自滅する

天才が凡人によって殺される…!

組織の中に渦巻く感情模様を、シンプルながら独創的な切り口で描いた北野唯我氏の「天才を殺す凡人」という概念はビジネスパーソンを中心に大きな話題を呼んだ。(1)

組織の中のマジョリティである凡人の天才に対する無理解、凡人たちの支持を得る秀才の天才に対する嫉妬心、織りなす複雑な感情が、結果として天才を殺してしまう方向に働くというその論理は、多くの人が目撃してきた不可解な現象を説明した。

しかし、天才は組織の中で殺される以前に自滅すると主張したら皆さんはどう思うだろうか?

組織にて殺されそうになる以前に、成長する過程において、自ら天才であることをやめるとしたら…

評価という麻薬

アメリカの心理学者であるアダム・グラントはその著書『Originals 誰もが「人と違うこと」ができる時代』の中で、神童と呼ばれた子供が創造性や独創性に溢れる天才に育つ難しさを次のように説明する。(2)

神童と呼ばれた子供たちが、世界を変える人物になることはまれだ。心理学者の研究によると、歴史に多大な影響を及ぼした人物たちは幼少期から才能に恵まれていたわけでもないし、天才児たちを一生を通して追跡しても、同等の家庭環境に育った他の子たちと変わるわけではない。

こういう話題になると、天才は「感情的・社会的・実践的」な能力に欠けている人が多いから仕方ないと考える人がいるが、統計的には別にそういうわけでもない。

では、なぜ神童は創造性や独創性溢れる人物として成功しないのだろうか。

その理由は、独創的や創造性を発揮するよりも、既存のルールの中で成果をあげた方が親や教師などの周囲から圧倒的に評価されやすいからだ。

これまでの研究結果からも、教師は周りと同調せずに、自分で独自のルールを作るような子を嫌う傾向があることがわかっている。教師は創造性の高い児童を冷遇し、問題児として扱いたがる。

天才児たちは大人が何を評価するかを素早く見抜き、結果として「この上なく従順な羊」に生まれ変わる。大人になる頃には創造性を持って世界を変える天才ではなく、既存のルールの中で成果をあげる人間になっているというわけだ。

天才児にとって「良い成績を取ろうという意欲」が逆に足かせになっている

以上のアダム・グラントの説明はもっともだ。

高校生の母親は、子供の数学の答案を見て「あなたの解法はオリジナリティに欠けるわね。もっとクリエイティブに発想したらどうなの?」とは言ってくれない。

また、中学校における美術の授業の絵画で、キャンパスを真っ黒に染めて「夜のカラス」というタイトルで作品として提出しても、教師は「これは中々独創的なモダンアート的手法だね」と評価してはくれないだろう。

大人の視点は残念ながら既成の枠組みに強烈に基づいている。

天才児たちのアイデンティティ

少し天才児の見ている景色について考えてみたい。

まず、子供とは天才であろうが、凡人であろうが、親や周囲から認められたいものだ。誰しも自分が愛されていると実感したい。認められたいが故に親の期待に応えて頑張りもするし、時に注意を引くために困らせたりもする。

そんな年齢の時に、親や先生から「この子は天才だ」と特別な感情を伴って認められ、褒められるようなことがあれば、その子は「自分には能力があり、それ故に愛されている」と認識してしまう可能性が高い。

もし、自分は無条件に親や周囲から愛されているという実感よりも、天才児であるが故に愛されているという実感が勝ってしまうと難しい事態に発展する。

自分は能力のある天才児であるというアイデンティティを捨てられなくなるのだ。自分が愛され続けるためには、良い成績を取り続ける必要があると彼らはすぐに理解するだけの頭がある。

さらに残酷なことに、現在の教育システムは「比較」を重んじる。低い成績であれば「同級生の成績が良い子」と比べられて怒られ、毎回のテストは必ず点数として自分の順位が表示されるため、優越感と劣等感からくるアイデンティティを増長する。

結果として、天才児は意図せずに、創造性を発揮する天才という道を自分から閉ざし、既存の社会で凡人から評価される秀才の道を選ぶということになる。もちろん環境的な要因は大きいが、その選択を最終的にするのは自分だ。つまり、天才は凡人に殺される前に大半が自滅する。

そんなこと言ったって、周囲の凡人や秀才たちが既存の枠組みの中でしか人を評価しないのが問題であって、それは天才児の自滅ではなくて、大人たちから殺されているだけじゃないかと考えるのであれば、それも1つの視点だ。

その場合は、天才は凡人から殺される前に自滅するのではなく、天才は幼少期にも殺され、大人になってからも社会的に殺されるという表現になるだろう。天才は2度殺される。

どちらにしろ天才児が天才として頭角を表すのは簡単ではない。天才の一生とは鮭のようだ。鮭は淡水で生まれたにも関わらず、稚魚の段階で海水への適応を余儀なくされる中、多くの兄弟たちを失う。大人になれる確率は極めて低いが、立派な大人になって川に戻ると熊に殺される。儚いものだ。

余談だが、天才自滅説の延長線上で考えると、秀才が天才に嫉妬するという構図の秀才の中には、元々は天才児であったが教育の過程で秀才になった人物もいると考えられる。そうなると、天才に対する嫉妬の気持ちは非常に複雑なものになっていてもおかしくはない。

その場合、元天才児が秀才になったが故に複雑なものとなった天才に対する嫉妬の感情を、凡人の力を借りて殺すというサスペンスのような展開になる。それはそれで興味深い。

自滅しない天才たち

それならば、天才児が自滅せずに天才らしくあるためにはどういう教育が必要なのだろうか。

そのヒントになる分野がある。将棋だ。

将棋も他の分野と同じで、若くして頭角を表す存在が現れる。それは、高校野球で全国から注目を浴び、プロとしての将来が期待されている選手や、数学や物理オリンピックで好成績を取る常人離れした頭脳を持つ中高生と変わりない。

しかし、プロ野球選手や研究者としては、若くして注目されたほどの成果を残せない人の方が多いにも関わらず、将棋は少し事情が違う。

将棋の歴史上、最も若く中学生でプロになった5人全員(加藤一二三、谷川浩司、羽生善治、渡辺明、藤井聡太、敬称略)が将棋界の歴史に刻まれるレベルの存在になっているのだ。誰1人として、中学生でプロになった割には…というレベルで止まってはいない。

私は、その大きな理由の1つは、将棋界が創造性を評価することだと考えている。少し深掘りしてみたい。

将棋では通常「定石」と呼ばれる指し方がある。今まで多くの棋士たちが積み重ねてきた経験を元に、「こう指すのが1番良い」とされる指し方で、他の競技における基本の型のようなものだ。

ただし、将棋界では定石は常に変化するものとして捉えられている。また、短いスパンの中でその時々における流行の型が登場しては、その対策が練られていく。変化が激しいのだ。

そういった特徴を持つ将棋界では、型に固執することは評価の対象になりにくい。むしろ、その時代において、誰も考えていなかったような手が指せるか、言い換えれば、いかに創造的破壊をするかということが注目される。

当時の将棋界で最高の称号である7大タイトル全てを同時に制覇し、七冠という唯一無二の記録を叩き出した羽生善治九段の指す手は、「羽生マジック」と呼ばれた。それは、誰も想像していなかった1手で盤面を支配する、まさに魔法だった。

それでは、今年、最年少で最高の称号である8大タイトルの1つを獲得した誰もが知る天才、藤井聡太二冠についても考えてみよう。

2020年6月28日。初のタイトル獲得となった棋聖戦第2局。

この日、藤井七段(当時)はタイトルホルダーである渡辺三冠(当時)を圧倒し、ほとんど隙を見せる事なく完勝した。

悔しい敗戦となった渡辺三冠は、自身のブログにて「いつ不利になったのか分からないまま、気が付いたら敗勢、という将棋でした」と振り返った。(3)

あまりにも恐ろしい表現だ。相手は素人ではない。相手は努力家で知られ、人一倍研究熱心な、現代最強の棋士と名高い渡辺三冠だったのだ。

つまり、渡辺三冠のコメントは、今までの膨大な経験や研究さえも届かないくらい創造的破壊をされたという意味に他ならない。

また、藤井二冠の対局では、指した手がAIでさえも簡単には読めない手だったとか、今までの既成概念を覆したとかで世間は大いに盛り上がる。

そう。将棋界では創造的破壊をもたらす天才を評価する。

天才児がよくわからない独自のルールを創造すると、教師たちは嫌がると先ほどは述べた。しかし、将棋の世界では全くの逆だ。

天才棋士が指した手が、素人どころか盤面を解説している他の棋士さえも「全く理解が及ばない」ものであるからこそ、秀逸なのだ。

もちろん将棋界で若き才能が潰れにくいのは他の理由もあるだろうが、創造性や独創性が正しく評価されるというのは、大きな理由の1つなのではないかと見ている。

ユダヤ人の教育

それでは才能の分野に関わらず、創造性や独創性を評価し、天才が天才らしくあるための普遍的な教育はできないのだろうか。

私の知る限り、それを1番実践しているのはユダヤ人だ。

ご存知の通り、ユダヤ人は世界中で迫害された歴史を持ち、建国は1947年と新しく、人口もわずか900万人弱に過ぎない。しかし、常に外敵に晒されてきた歴史を有する故に、彼らの投資の対象はいつも教育だった。確実に残せる財産は教育しかなかったのだ。

その結果、今までのノーベル賞の20%以上はユダヤ人が受賞している。有名な学者はアインシュタインやマルクスをはじめ、フロイト、アドラー、ドラッカーなど世界を変えた人物ばかりだ。もちろん、学者だけではなく、経営者や芸術家まで世界的な人物がいくらでも見つかる。

東京都の人口よりも少ないイスラエルでは、年間1000社以上のスタートアップが立ち上がるため、世界中の先進国がテクノロジーの投資先としてイスラエルに注目している。今の生活を支えている重要なテクノロジーである、インテルのプロセッサやUSBメモリ、ファイアフォールが開発されたのもイスラエルだそうだ。(4)

それでは、数多くの創造性溢れる天才を排出してきたユダヤ人は、どのような教育をしているのだろうか。

アメリカ系ユダヤ人弁護士と結婚し、その教育のエッセンスを『「与える」より「引き出す」!ユダヤ式「天才」教育のレシピ』という本にまとめたユキコ・サター(中村起子)氏によると、ユダヤ人の教育には大きな特徴が数多くある。(5)その中から英才教育という観点で興味深いものを2点だけ紹介したい。

まず1点目は、ユダヤ人の教育は子供の自主性を尊重し、何かを押し付けないということだ。

これまでの人生の中で、勉強しなさいと口うるさく言われたり、進学や就職などの進路に口を出されるなど、何かしら親から押し付けられたという経験を持つ人は多いだろう。

親は子供のためだと思って期待を込めて口を出すが、ユダヤ人の親はそういうことはしない。子供が何に関心があるかをじっくり観察し、子供自身が好きなことを見つけ、自主的に取り組めるように徹底的にサポートするのが親の役割だと考えているようだ。

そのために、博物館からコンサート、自然の中に至るまで、親は子供たちを様々な場所に連れていき良質な体験をさせる。子供が普段と違う興味を示したら、すかさずその分野の本を与えてみるなど、子供の才能を引き出すことに余念がない。もちろんその際、勉強しなさい、こうなりなさいなどの強要はしない。

先日、個人的にだが、その好対照となる出来事があった。20代の看護師の女の子が同じ職場の医者と結婚を前提に付き合うことになったと話してきたのだ。しかしまさに2人が恋愛関係に発展しようとしたその時、相手のお母さんが口出ししてきたという。

相手のお母さんの主張は、うちの家系は2代にわたって医者だから、孫も医者になると決まっている。だから、相手には高学歴の人を選ばないといけないので、看護師であるあなたは息子の相手として相応しくないという内容だった。

看護師の女の子は、相手の医者がどうにか母親を説得してくれると期待した。しかし、彼は親の予想だにしない反対に困って何もできず、2人の関係は難しくなった。

医者である彼は学力には優れていたが、従順に親の言うことを聞いて、その期待に応え続ける人生だったために、自分で物事を考え判断することができなかったようだ。

この例は少し極端な例ではあるだろうが、親がこうしなさいああしなさいと自分の期待する方向へ子供を誘導しようとすることは、どこででも見られる光景であり、そうなった場合、子供は自分の独創性や創造性を伸ばしていくことが残念ながら難しくなる。

親の期待というのは往々にして、成績や賞、進学先や就職先など、形としてわかりやすく現れる内容であることが多い。そのためにはこれまで述べてきたように創造性や独創性は抑えなければならない。

それに対し、ユダヤ人の教育は、子供の自主性をとことん尊重し、親が既存の評価に従って余計な口出しをしないため、創造性や独創性に富む天才が育ちやすいと言える。

そして、ユダヤ人の教育で興味深い観点の2点目は、自分の子供と他人の子供を比較しないということだ。

ユダヤ人の親は子供の能力に関係なく、無条件に自分の子供を信頼する。ジューイッシュ・マザーというと親バカの代名詞でもあり、周りの子供と比較するという考え自体があまりないそうだ。

一方日本では、幼児期には「周りの子は誰も泣いていない」「駄々をこねているのはあなただけ」という比較から始まり、学校に行くようになると、学業成績の比較や、進路の比較など、親は周りと比較することで自分の子供の現状を見出そうとする。親も子供も「比較」という軸をあまりにも重要視している。

比較は、創造性や独創性というよりも、成績などの既存のわかりやすい指標が用いられるため、比較されればされるほど、子供が創造性や独創性を失っていくのは言うまでもない。

最後に私が出会ったユダヤ人の話を付け加えたい。

私はアメリカのネバダ州ラスベガスで英語学校に通っていたことがある。学校にはアメリカに来ている世界中の人が集まり英語を勉強していた。

その象徴とも言えるのが、教室の後ろの壁に貼られた世界地図だ。学校のユニークな取り組みとして、地図にある自分の出身国にピンを刺すことになっていたが、アジア全域からヨーロッパやロシア、南アメリカに至るまで、実に様々な地域にピンが刺されていた。

授業では、生徒がその国の文化を代表するが、1人異彩を放つ生徒がいた。イスラエル出身のおじさんだ。彼は、気になる事があると矢継ぎ早に質問を繰り返すため、最後にはブラジル系アメリカ人である先生から質問する事自体を止められていた。

“Why?” が頭の中を常にグルグル回っているような人だ。わからないことや納得できない事があると、それがなぜなのか気になって仕方のない様子だった。

そう聞くと、変わった人だと思うかもしれないが、日本でもそういう人を我々はたくさん目にしている。そう。小さい子供たちだ。

小さい子たちは「なんで?」という疑問をいつも口にする。彼らのみる景色には不思議なことであふれており、大人たちが困るほどに質問責めにすることも珍しくない。

しかし、その口癖は次第になくなっていく。その理由として、疑問が少なくなったからという側面も確かにあるが、それよりは、「なんで?」と言い続けると煙たがられるからだ。

子供たちは「これはこういうものなのだ」と思考停止することを推奨される。それに逆らうのはリスクが高い。大人から嫌われるわけにはいかない。

しかし、英語学校で出会ったユダヤ人はおじさんになっても子供だった。考えられることは一つ。その態度でいても嫌われない家庭や学校、もっと言えば国で育ったのだろう。

教育の未来

独立研究者であり『世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか』などの著書で知られる、山口周氏は、「創造性の重視」「個性の尊重」「詰め込み教育からの脱却」などの教育上の課題は、1987年の時点で既に内閣総理大臣直属の諮問機関にて議論されていた内容であると指摘する。(6)

もちろんその結果は、皆さんのご存知の通りだ。

我々は、天才たちが天才らしくあることができる未来を創造することができるだろうか。

参考・引用
(1)北野唯我『天才を殺す凡人 職場の人間関係に悩む、すべての人へ』日本経済新聞社出版、2019年
http://yuiga-k.hatenablog.com/entry/2018/02/23/113000

(2)アダム・グラント『Originals 誰もが「人と違うこと」ができる時代』三笠書房、2016年

(3)https://blog.goo.ne.jp/kishi-akira/e/c60850ab2fd00def905e39db538a0c5d

(4)新井均『世界のエリートはなぜ「イスラエル」に注目するのか』東洋経済新聞社、2020年

(5)アンドリュー・J・サター、ユキコ・サター『「与える」より「引き出す」!ユダヤ式「天才」教育のレシピ』講談社、2010年

(6)http://artsandscience-kipling.blogspot.com/2020/08/blog-post.html?m=1

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IQ155オーバーだが、自信があるのはEQ(心の知能指数)の方で、繊細な感受性の持ち主。 大学時代に週末はあらゆる大学生と人生を語り合うことに費やした結果、人を見下していた尖り切った人生から、人の感情を共感し理解する相談役の人生へとコペルニクス的転回を果たす。 これからの時代は感情の時代になると確信しており、感情のあり方が幸せに直結するとの考えから、複雑な感情の流れを論理的に整理することに挑戦している。 モットーは Make the invisible visible 詳しい自己紹介はこちら