様々な大企業を渡り歩いてきた田端信太郎氏によると、35歳以上の男性の8割はメンツでできているそうだ。確かに男性中心社会では、顔を立てるとか、誰々を通すなど、その辺りの政治的なバランスで成り立っている。
逆にいうと、軽んじられるとか、見下されるようなことは極端に嫌がる。歴史を紐解くと、日本では古くから、名誉を傷つけられたとか、侮辱されたという場合には復讐するというストーリーが美談として語り継がれてきた。
メンツを傷つけられた時の反応は、外国人からみるとあまりにも過敏で繊細に感じるようで、著書『菊と刀』の中で、ルース・ベネディクトはこのように論じている。(1)
本来、人は自分が侮辱されたと考えない限りは侮辱されようがない。また、人を汚すのは、「本人の内部からにじみ出てくるもの」であって、その人に対する悪口や嫌がらせではない。だが、日本人の価値体系は、そのようなことは教えていないのである。
これはとても鋭い指摘だ。例えば、Aさんが Bさんを侮辱したと見られる場合、次のパターンが考えられる。
【ケース1】
Aさんは侮辱する意図をもってBさんに対し、Bさんも侮辱と受け取った。
【ケース2】
Aさんは侮辱する意図をもってBさんに対したが、Bさんは侮辱と受け取らなかった。
【ケース3】
Aさんは侮辱する意図なしにBさんに対したが、Bさんは侮辱と受け取った。
さて、ケース3を見てほしい。完全に誤解である。
もちろん、人を侮辱することはよくないことだとしても、受け取る側には相手の言動に対する解釈を工夫したり、自分の感情をコントロールする余地がある。
侮辱されたと思ったが、相手も本当にそのつもりだったのかははっきりとわからない場合もある。また、確かに侮辱だったとしても、いちいち過敏に反応して復讐することにエネルギーを使うべきなのかと自分を律することは有意義だ。
自分自身を苛立たせ、復讐や怒りの思いに身を任せるかどうかはあくまで本人の選択だというわけである。この「受け取る側の選択」という感覚が弱い社会は監視社会的な色彩を帯びてくると思う。
迷惑をかけるとは?
この、「受け取る側の選択」が軽視されている事例の1つが「迷惑」という表現だ。
日本では人に迷惑をかけてはいけないと小さい頃から教えられる。中には、わが子の将来に「人様の迷惑にだけはならない人」になることを望む親もいるそうだ。
しかし、この迷惑という概念は非常に曲者だ。それは、迷惑は受け取る側ではなく迷惑をかける側に常に問題があるという意味合いが一般的に定着しているからだ。
電車の中で赤ちゃんが泣き出した場合に、迷惑だと嫌な感情を抱く人は大勢いる。しかし、全くそう感じない人もいるのだ。実は迷惑には普遍的な物差しがなく極めて主観的なものだ。
むしろ、海外に行くと、電車の中で赤ちゃんが泣こうが大声で通話しようが周りはあまり気にしない国の方が多い。つまり、迷惑をかける側だけが問題とは限らず、受ける側が過敏にイライラすることも問題と考えるべきなのだ。日本人は寛容度、言い換えれば沸点が極端に低い。
しかし、ベネディクトが指摘するように、受け取る側の問題という価値観がない場合には、どんな些細なことでも、迷惑だと感じてしまう沸点の低い人に合わせて行動しなければならない社会構造になってしまうのだ。
かくして、小さな事でイライラしたりしない寛容な人たちまでも、沸点の低い人たちが迷惑だと騒ぎ出すことを警戒しながら周りをキョロキョロ見つつ行動せざるを得ない。
それは、あたかも周囲にある無数のシャボン玉を破らないように避けながら動く事を強要されるかのようだ。シャボン玉が弾けると誰かが怒り出す。
それくらい、迷惑をかけるなという表現は思考停止ワードになってしまっている。
自分の内部からにじみ出てくるもの
同じように、自分が客として少しでも不当な扱いを受けたと感じた場合に、一気に感情的になり企業を攻撃するクレーマーが後をたたず、自分の子供が少しでも不平等な扱いを受けたと感じた場合に、一気に感情的になり学校を攻撃するモンスターペアレントに教師たちは苦しんでいる。
周りの言動だけではなくて、その結果「自分の内部からにじみ出てくるもの」にも注目する価値観を教えなければ結局のところこうなってしまうのだ。
心理学者のアルフレッド・アドラーが「課題の分離」という概念で説明したように、自分の気に触る言動をとる相手を無理に変えようとするよりも、自分の解釈や感情のコントロール、そして取る行動を変化させた方が有意義だ。
迷惑だと感じる相手に突っかかって相手の行動が変わったとしても、自分の沸点が低ければまた同じようなシャボン玉にぶつかることだろう。それは本人の成長とは程遠い。
自分のできることに集中し、自分が変化することこそが成長と言えるし、自分が成長すれば同じように成熟した人を見分けることが可能になってくる。また、より成熟した人と付き合う方が楽になってくるだろう。
毎日のようにテレビでもネット上でも沸点の低い誰かが爆発し、周囲が巻き込まれている。そうなると、同じ沸点の低い人が攻撃目的で集まってくる。
自分の選択肢に注目しなければ、誰も幸せにならないような気がしてくる。気のせいだろうか。
参考・引用
(1)ルース・ベネディクト『菊と刀』光文社、2008年
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