吹き荒れるキャンセル・カルチャー

アメリカでキャンセル・カルチャーが止まらない。

キャンセル・カルチャーとは、有名人の言動が多くの反発を呼び、不買運動や仕事の起用の取り消しの声が爆発的に広まった結果、その人がキャンセル(抹消)されてしまうムーブメントを言う。

そう聞くと、日本でもお馴染みではないかと思うかもしれないが、不倫や麻薬使用などの個人、家庭次元の問題で有名人が炎上するのはむしろ日本独特の文化だ。アメリカではその手の問題は誰に迷惑をかけるでもない個人や家庭次元で解決すべき内容で、そこまで批判の対象にはならない。

アメリカにおける可燃性のテーマは、人種差別やLGBTQなどのセンシティブな内容だ。

鳴り止まない非難の声

今年3月、アメリカのファッション雑誌「Teen VOGUE(ティーン・ヴォーグ)」の新しい編集長に就任するはずだったアレクシ・マキャモンドが辞任を発表した。

彼女は10代の学生だった2011年に、ツイッター上でアジア人の外見に対する侮辱や、同性愛者を差別する発言をしており、それがネット上に拡散した。すると、すぐに大きな問題になり、大手スポンサー企業は広告を停止する事態にまで発展した。

事態を大きく見た本人は、辞任を決め、謝罪のツイートを投稿。しかし、それですぐに許されるという雰囲気はない。最近のアメリカは、有名人の過去のポリティカルコレクトネスから外れた言動を発掘してきては袋叩きにするというムーブメントに大忙しだ。どうやらそれが10年前だとか当時は10代だとかいった情状酌量の余地はないらしい。

さらに言えば、一連のツイートに対して2年前にも指摘を受け、本人はすでに謝罪していた。だが、それで済む問題でもなかったらしい。

つい先月には、19歳ながらアメリカのカリスマ的人気歌手であるビリー・アイリッシュが処刑台に上がった。

アジア系に対する人種差別用語を口にし、アクセントを真似る動画がネット上に出回ったのだ。彼女はその件について謝罪し、その動画の当時は自身が13歳か14歳の時だと説明したが、先ほどの一件と同じく、若さゆえの過ちという概念は人種差別とは残念ながら交わらないらしい。

こういった現象を最近では「キャンセル・カルチャー」と呼ぶ。一度の過ちで、その人をキャンセル(抹消)するというわけだ。こうした動きには、あまりにも極端だという反対意見も存在するが、怒りに駆られた人たちを止めるのは誰にとっても難しいものだ。

差別の複雑性

こういったアジア人差別の話になると、昨年巻き起こったBlack Lives Matterのように「また白人たちは自分たちが特権階級だと勘違いして…」という気持ちになる人も多いのではないだろうか。

だが実は話はそんなにシンプルじゃない。

最初に紹介した、Teen VOGUEの編集長になる予定だったアレクシ・マキャモンドは3人目の黒人女性編集長となるはずだった。そう、アジア人差別で告発されたこの女性は、人種差別の痛みがわかるはずの黒人だったのだ。

実はこの記事を書いているタイミングでも全く同じことが起こっている。サッカー・フランス代表のFWアントワーヌ・グリーズマンとFWウスマン・デンベレが2019年に来日していた際、ホテルのスタッフに対しアジア人に対する差別的な言動を取ったことで日本がざわついているのだ。

その結果、非難を浴びている2人に関して言えば、グリーズマンは白人だが、スタッフに対し「醜い顔」と笑いながら言い放ったデンベレはアフリカ系だ。

Black Lives Matterが広がる5年前、アメリカでの初めての生活を経験した私は、人種に関する現実を理解した。

アメリカ社会は、高校の授業で習ったような「サラダボウル」というよりは「三色丼」に近い。もちろん都市部に行くと表面的には交わっているように見えるが、住んでる場所も、髪を切る店も人種によって分かれていたりする。

そういう環境に住んでいれば、誰であっても人種間の距離という現実を嫌が応にでも悟っていくものだ。そして昨年においては、被害者としての黒人たちの怒りがアメリカで爆発した結果になった。

ではなぜ白人だけでなく、黒人までもアジア人を差別するのか。いじめられたことがある人はいじめられる痛みを理解しているので、もはやいじめる側に回らないのではないのか。

人間の感情はそこまで単純じゃない。以前にも記事で触れたが、いじめられたことがあるからいじめないという因果は成立しないのだ。

なぜ、わかってもらえないのか

2019年8月10日

ポリコレという作戦

アメリカは複雑化している差別という問題に関して、差別的な言動を取った人間を、それが何年前の出来事だろうが当時10代だろうがとにかく抹消する戦略を選択した。

犯してはならない禁忌であり、情状酌量の余地も時効もないとする事が、差別根絶への最短経路だと判断したらしい。このポリティカルコレクトネスを絶対的正義としてジャッジする風潮が広がり始めてから、多くの人が過去に縛られているのではないかと予想する。

10年前にちょっとした差別発言をTwitterにアップした有名人は、自分の過去の発言を全て一遍に消去するべきか、膨大な発言から問題のある発言だけを時間と手間をかけて探し出し消去するかの選択を迫られたかもしれない。

もちろん、消去した後も安心はできない。影響力が高い人物であればあるほど、過去の発言を誰かがすでに保存している可能性は高い。

また、公の場でそういう言動を取った自覚のある人も要注意だ。15年前であったとしても現代に即座に適応されるらしいことから考えると、キャリアが全て台無しになるリスクを抱えながら、いつ暴露されてしまうだろうかと不安な夜を送っている人もきっといることだろう。

このキャンセル・カルチャーの特徴は文字通り抹消力の高さで、有無を言わさぬ力があるため、全人類は何としても差別主義者だと思われないように振舞う必要に迫られているのだ。

件のサッカー・フランス代表によるアジア人差別問題に関する、弁護士の山口真由さんの指摘はその事実をとても鋭く表現している。

つまり、デンベレにとって、自分は初対面だろうが誰にでも「顔が醜い」などの言動をとる最低の人間ですよと認めた方が、差別主義者と思われるよりはマシと思えるくらいポリコレの風当たりは強いと判断したということなのだ。

誰に対しても暴言を吐くことを認めながらも「でも俺は差別主義者ではない」と胸を張れるほどには、ポリコレによる圧力という作戦は今の世界において機能しているらしい。

それほど、アメリカを中心として、世界に聖域なきキャンセル・カルチャーの波が確実に広がりつつある。

キャンセル・カルチャーのダブルスタンダード

それではこのキャンセル・カルチャーが人種差別を根本的に一層してくれ、個人の意識改革を促してくれるかというと、どうもそういうことではないらしい。

アメリカのカリフォルニア州で生まれ育ち、アーティストやYoutuberなど多彩な活動を展開している井上ジョーさんは、人種差別の闇をYoutube上で生々しく説明している。(1)

彼が言うには、黒人に対する差別であれば世界は大きく関心を持つが、アジア人に対する差別の場合には社会的注目が集まらないという。

実際に、現在日本では話題になっているサッカー・フランス代表の日本での差別的発言も、大手の欧米系メディアで取り上げられているのは英国紙のデイリー・メールくらいだと指摘する。事件の動画の再生数も比較的伸びていないとのことだ。もちろん差別の対象が黒人であればこうは絶対にならない。

また、Black Lives Matterを支持する人たちが、アジア人差別には全く関心を持たない現象も多く見られるようで、結局ダブルスタンダードなんだと井上ジョーさんは嘆く。

アジア人に対して差別的な言動をとる黒人が普通に存在することは、Black Lives Matterは結局のところ、黒人に対する地位向上を願うものに過ぎず、人種差別の撤廃を目指すものではないのだという現実を突きつけられる。

いじめられっ子が「こんな苦しい目にあうのは自分だけでいい。いじめは完全に無くさなければ。」という崇高な精神を持つことは簡単ではない。

実際は「いじめられるのはもう嫌だ。いじめられる側からいじめる側に回りたい」という気持ちで精一杯なのかもしれない。

また、ポリコレはあまり物事を深く考えていない一般人に対して、社会的正義を後押しするように強烈な同調圧力をかけてくる。つまり「あなたも当然人種差別に反対しますよね?」と個人の信条にまで土足で踏み込んでくるのだ。

自分は差別主義者じゃないという「ノン・レイシスト」というだけではダメだ。具体的に行動を起こす「アンチ・レイシスト」にならなければという圧力が、個人の自由や権利を尊重するアメリカでさえあるようだ。

そうなった場合、自分が人種差別に対してどの程度の意識があるかに関係なく、Noとは言いづらい。そうやって、表面的には差別に反対するが中身は伴っていない、押し付けられた感覚を持つ人たちが誕生する。

結局強圧的に人種差別はダメだと訴えても、人の根本的な感情や差別の背景にまで理解をした上で問題を解かない限り本質的な解決は難しそうだ。

許すのか許さないのか

また、たとえ人種差別は良くないとしても、個々人の事情に関係なく一度の過ちを二度と許さずその人を抹消してしまうというのは正しいのかという疑問も残る。

人は、自分が間違っていたことを自覚し、それを反省し許しを得るという一連の流れを通して成長する側面があるからだ。

大人になってからも差別的な言動を繰り返し、それを指摘されても開き直り自己正当化する人物と、10代の若い頃に差別的な言動を取ったことを5年後10年後に指摘されて真摯に反省し謝罪する人物を、本当に社会は等しく抹消するべきなのだろうか。

少なくとも、現状のキャンセル・カルチャーにはあまり許しがなさそうに見える。

興味深いのは、この許しのないキャンセル・カルチャーが広がっているアメリカという国自体は、許しという概念と根深い関係のあるキリスト教を中心として歴史を出発していることだ。

そもそも信仰の自由を求めたピューリタンたちが、キリスト教徒にとって理想的な社会を建設することを目指して出発したアメリカ開拓の名残は、聖書に手をついて宣誓する大統領就任式のような国家的な行事から、硬貨やお札に刻まれた”In God We Trust(我々は神を信じる)”の文字のような日常的に使うお金にまで、様々なところに表れている。

そんなキリスト教の教えの中で、核心的な内容の一つが「許し」だ。

例えば新約聖書のマタイによる福音書の中でイエス・キリストは、罪を犯した人を何回まで許すべきか(7回まででしょうか)と質問してきた弟子に対して、7回を70倍するまで許しなさいと語った。もちろんこれは490回までという話ではなく、何度でも許しなさいという意味だ。

また、ヨハネによる福音書のおける姦通の女という有名なエピソードも許すという価値を強調する。

姦通罪で捕らえられたある女性がいた。当時の法律では石打ちの刑(死刑)に当たる大罪だ。その女性に対する判断を律法学者から求められたイエス・キリストは一言で場を一転させる。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず石を投げなさい」

すると、一人また一人とその場を去っていき、誰も女性に石を投げられなかった。究極的に、人を裁く権利や資格を持つものはいないという教訓を与えてくれるエピソードだ。

しかし、現代のアメリカはキリスト教と切っても切り離せない「許し」という概念をどうやら捨ててしまったらしい。むしろ喜んで「許さない」選択をしているようにも見える。

当時死刑に値した姦通罪のような大きな罪じゃなくても、10代の少年少女の失言に対して社会は石をこぞって投げつけるようになった。しかも、現代ではその石は匿名でも投げられるし、地球の反対側からでも投げられるらしい。

石を投げるリスクは極端に減ったようだ。

アメリカ社会は許しを重視する新約聖書を捨てて、目には目を歯には歯をと、やられた分はやり返すことを許容するハンムラビ法典を聖典に替えてしまったかのようだ。

もちろん人種差別は悪だ。根絶する必要はある。しかしこの急進的なアプローチが成功するかどうかは私にはわからない。

さて、違う大国に目を向けてみよう。

人をキャンセル(抹消)する上で、国家が先導してきたという意味で最先端の国はどうだろうか。そう、中国だ。国にとって都合の悪い出来事や発言、時には人さえもどんどんキャンセルされていくこの国では実は興味深いムーブメントが起きている。

実は、共産主義を標榜し宗教を迫害し続けてきた中国では、毎年キリスト教徒が7~8%ずつ増え続け、2030年には3億人に達する見込みだという。(2) 当局も教会を潰したり、信徒を弾圧したりと必死のようだ。

現時点で世界で一番力を持っている国は言うまでもなくアメリカと中国だ。

一国は愛と許しを中心として出発し、現在は許すのに疲れて社会的正義を万人に押し付けることに必死だ。

もう一国は自分たちの正義を浸透されるために徹底的に言論の自由を弾圧するところから出発し、それに疲弊した人たちが愛と許しの世界を求めてキリスト教の門を叩いている。

なんとも不思議な構図だ。

正しいことが正しく伝えられるまで

結局のところ「人種差別は良くない」という正しさをどうやって正しいと認識してもらうかこれから世界は模索するのだと思う。

正しいことを正しいと認識してもらうというのは簡単そうで非常に難しい。そこに正論の罠がある。お母さんに「将来のために勉強しなさい」と言われたとしても、子供は反発する。

正しいことを正しいと快く受け入れてもらうことが本質であって、正しいことを正しいと正論のごとくぶつけることは、時に相手を正しさと逆の方向に誘導する可能性さえある。

その点において、キャンセル・カルチャーというアプローチは今後どういう結末を見るのか、目が離せない。

参考・引用
(1)https://www.youtube.com/watch?v=1JsGiBAA7tQ

(2)https://courrier.jp/columns/244777/

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ABOUTこの記事をかいた人

IQ155オーバーだが、自信があるのはEQ(心の知能指数)の方で、繊細な感受性の持ち主。 大学時代に週末はあらゆる大学生と人生を語り合うことに費やした結果、人を見下していた尖り切った人生から、人の感情を共感し理解する相談役の人生へとコペルニクス的転回を果たす。 これからの時代は感情の時代になると確信しており、感情のあり方が幸せに直結するとの考えから、複雑な感情の流れを論理的に整理することに挑戦している。 モットーは Make the invisible visible 詳しい自己紹介はこちら