共感の神から見た『天才を殺す凡人』

独特の切り口で、ブログ、書籍共に話題をかっさらった『天才を殺す凡人』。これにより多くの天才たちが安堵し、理解されるきっかけになったに違いないでしょう。

北野唯我さんが提唱しているシンプルな構図は、とても理解しやすく、またどの立場にも必要以上に肩入れすることなく、中立的な書き方を意識しておられるように感じました。

北野唯我さんのブログ「凡人が、天才を殺すことがある理由。」

僭越ながら簡単に要約させていただくと、物事の評価軸が、
・天才にとっては創造性
・秀才にとっては再現性(≒ロジック)
・凡人にとっては共感性であり、

・天才は秀才に対して興味がなく、凡人に対しては理解して欲しいと思っている。
・秀才は天才に対して妬みと憧れの相反する感情を抱いており、凡人に対しては見下している。
・ 凡人は天才に対して理解できないから排斥し、秀才に対しては天才だと勘違いしている。

という構図です。

また、凡人が大多数を占めるこの構造の中で、「共感の神」と呼ばれる凡人がいます。共感性の高さから、誰が天才・秀才・凡人か見抜くことができるという俯瞰視点を持つ存在であり、天才の唯一とも言える味方になり得る存在です。

今回は、私自身がこの構図の中で言うと、共感の神に属すると自覚していることから、「共感の神視点」でこの関係性を考察してみます。

共感の神から見た天才

共感の神から見た天才は、とても孤独な存在で、どう見ても一番かわいそうで報われない存在に見えます。「天才」というと、先天的に華やかで才能に満ち溢れているように見えるかもしれませんが、共感の神視点だと、殺されずに花開いた天才は、その何倍もの殺された天才たちの屍の上にようやく存在しているのではないかと思うくらい天才たちは理不尽な目にあっています。

特に大変そうに見えるのは以下の場合。
・天才よりも肩書きや年齢において上に凡人や秀才が多い場合
・天才自身が凡人や秀才に対して攻撃的な態度を取ることがある場合
・天才の理解者がそのグループにおいて少ない場合

共感の神としては、天才が一番能力があるにも関わらず不遇なため、天才を基本的には応援したくなりますが、天才側にも注意してもらわなければいけないことが1つ明確に存在します。

それは、殺されない言動をとることです。天才は視野が広いため、たまに意図せず配慮に欠けることがあります。具体的には、天才にとっては当たり前であったり正しいと思えることを、自信を持って伝えた時に、秀才や凡人は言ってることがよく理解できず見下されたように感じやすいです。皮肉にも、天才がマウントを取ろうとしてそういう言動に至ることは少ないのですが、受け取る側はどうしてもマウントを取られたと思ってしまいます。天才に属する人は、優劣などにあまり関心がない人が多いように思うのですが、秀才と凡人は比較や優劣の世界に生きている傾向が強いので、どう伝えたらいいかは天才の工夫の見せ所です。そこが天才側からできる唯一の努力のような気がします。

その辺りの対処をやらかしてしまうと、凡人や秀才が感情的になってしまい、共感の神から見ると、もっと配慮できればいいのに…というもどかしい展開になります。

共感の神から見た秀才

秀才は天才を殺すか生かすかまさに紙一重の存在に見えます。全体に対する影響力がありながらも、天才側に味方するのが感情的にどうしても難しくなりやすいため、この構造を活かす上では一番のキーマンと言える存在ではないでしょうか。

構造上、天才の味方になり得るのは秀才か共感の神だと思っています。凡人には天才はなかなか理解できないからです。そして、味方になる場合に秀才と共感の神では大きく特徴が分かれます。

共感の神が天才に味方した場合、精神的には味方になり、相談に乗ることはできます。しかし、共感の神自体が凡人のカテゴリー内であり、影響力のあるポジションにいることはあまり多くないことから、構造を劇的に改善することは難しいというのが現実だと思います。共感の神の声が大きくない場合が多いでしょう。

一方、秀才が天才に味方した場合、構造そのものが一気に変わります。秀才は重要なポジションにいることが多く、天才の価値を凡人に伝えることも容易です。秀才にはそれを伝える能力もあるし、凡人からの信頼も厚いからです。こうなると組織が天才の才能を発揮したパワフルなものに変わると考えられます。

ただし、その最大の壁になるのは秀才の中の複雑な感情です。北野さんの秀才の定義自体に「天才に対して妬みと憧れの相反する感情を持つ」とあるように、天才に対するポジティブな感情とネガティブな感情の両方を秀才は抱えています。共感の神視点だと、残念ながら、妬みの方に転ぶことが多いように見えますが、その理由には次のようなことが考えられます。

・天才を認めることは自分の才能が及ばないと認めることであり、特に競争好きの傾向にある秀才には耐えられないことだから
・凡人たちから天才視されている今の構造を崩したくないから
・天才を殺したところで、多くの人が天才が殺されたという事実を認識しないから

かくして、天才と認識されずに多くの天才たちは埋もれていくことになります。天才が抱える孤独な苦悩とはまた全然違う意味で苦悩するのが秀才なのですが、もし天才と秀才の仲が良かったら、全てがうまくいきそうだと想像できます。

共感の神から見た凡人

僭越ながらあえて元の設定に意見を述べるとすると、前提から覆すようですが、凡人は共感性で評価するというところに少し違和感があります。天才は創造性に共感を覚え、秀才は再現性に共感を覚えるとするならば、凡人はマジョリティの意見や、権力者など発言力のある人の意見に協調していくようなイメージです。あえて一言で言うならば、協調性(マジョリティや権力に対する)というのが一番近いのではないかと思います。

「共感性」と置いてしまうと、自分の共感できる内容を評価するのは凡人でも天才でも同じですし、そもそも天才に共感できないのが凡人ですから、共感性というのは言わんとするニュアンスはわかるのですが、ちょっと違うかなぁという気がします。特に共感の神視点からすると、凡人が天才に共感できないことから種々の問題が起きるため、共感性と定義することに少し抵抗があります。協調性というのも、良いことにいち早く協調するのはありがたいことなので、完全にケースバイケースであり、決してマイナスだけ意味合いではありません。

全ての構造が見えやすい秀才、凡人や秀才の気持ちはわからないが何とか理解しようと努めることはできる天才に比べて、視座が低い凡人は誰が天才なのかあまりわからないため、できることが限られる印象です。率直に言えば、凡人の気持ちとしては悪気もないし、盤面が見えないのでどうしようもない。とは言え、マジョリティが凡人である以上、最終的に全ての構造を決定するのはもちろん凡人なのですが…

結局大事なのは

共感の神視点から見ていきましたが、結局はそれぞれの立場を理解する前提でコミュニケーションを図るしかないというところに落ち着きそうです。天才と秀才、天才と凡人、この組み合わせのどちらかでも相互理解が進めば、問題は一気に解決に近づきます。

天才に配慮を、秀才に良心を、凡人に理解を。

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ABOUTこの記事をかいた人

IQ155オーバーだが、自信があるのはEQ(心の知能指数)の方で、繊細な感受性の持ち主。 大学時代に週末はあらゆる大学生と人生を語り合うことに費やした結果、人を見下していた尖り切った人生から、人の感情を共感し理解する相談役の人生へとコペルニクス的転回を果たす。 これからの時代は感情の時代になると確信しており、感情のあり方が幸せに直結するとの考えから、複雑な感情の流れを論理的に整理することに挑戦している。 モットーは Make the invisible visible