1対1のコミュニケーションをキャッチボールと比喩する例は、おそらく誰でも聞いたことがあるのではないだろうか。
しかし、対話の本質に迫った『こころの対話 25のルール』によると、コミュニケーションは実のところ、キャッチボールではなく、ドッジボールになる例が多いと指摘されている。(1)
この比喩がとても素晴らしいので、心地良い会話が広まるための有効な比喩として、キャッチボールとドッジボールから見るコミュニケーションについて深掘りして考えてみたいと思う。
キャッチボールと会話
私は野球経験はないが、キャッチボールをしたことは何度もある。
ボールを交換する行為をあえて「キャッチ」ボールと命名しているように、この一連の運動は自分が投げたいように投げるというよりも、相手が取りやすいように投げるという前提に成り立っている。
つまり、キャッチボールの目的は勝ち負けではない。円滑な交換だ。
故に、投げ手は、相手が取りやすいように投げようとする。もし相手が取れないところに投げてしまった場合には、申し訳ない気持ちになるのは投げ手だ。「ごめん」とつい言葉が出てしまうかもしれない。それくらい、相手が取りやすいように投げるというのは当たり前のことだ。
受け手は、相手の投げる球に集中して取り逃すまいとする。技術のある受け手になると、いい音を出してボールをキャッチすることで、投げ手に自信をつけさせる。それくらいにボールを取ることに集中するわけだ。
さて、このキャッチボールの流れを会話に変換してみよう。
まず、話し手は「相手が理解しやすいように」話す。相手が理解できない難しい言葉を使ったり、相手に考える時間を与えないような早口で捲し立てる態度はキャッチボール的ではない。
そして、「相手が自分の話をうまく消化できない時は、相手の問題ではなく自分の問題」になる。キャッチボールで相手が受け取れない球を投げるということは、ほとんどの場合投げ手の暴投だからだ。
そう考えると、「頭をつかえ」「気が利かない」など相手に理解力がないと責め立てるようなコミュニケーションは全くキャッチボール的ではない。あくまで、相手がしっかり受け取れるボールを投げているかが焦点になる。
次は聞き手をキャッチボール的に考えてみる。
聞き手は、まず「相手の話す内容に完全に集中すること」が何よりもキャッチボール的だ。
我々はよく、相手の話していることを聞き流しながら、次に自分が何を話すかを考えたり、自分がこれからやる別のことに意識がいっているものだが、これは全く持ってキャッチボール的ではない。最近では、自分はスマホに集中しながら相手の話を聞くというのもそれにあたるだろう。
会話だとなんとなくそれでも成り立ってるような気がするが、実際のキャッチボールだと、おそらく自分の顔にボールがぶつかっているはずだ。
そして、良い受け手がいい音を出して相手のボールを受けるように、「相手が話しながら心地良く感じるリアクション」があると素晴らしい。そうなると、相手は話すことが嬉しくて、そこに信頼が生まれることだろう。
ボールをキャッチするときは必ず音が出るが、実際の会話では話し手の言葉に対してほとんどノーリアクションであったり、興味を示さない聞き方をされる機会は多い。これはキャッチボール的ではないということになる。
そう考えてみると、会話がキャッチボールになっているというのは、とてつもなくハードルが高い。
上記のように、話し手と聞き手の双方が、相手に対する配慮や関心を強く持っていないと中々そうならないのだ。
会話がキャッチボールに安易に例えられる割には、それはどこにでも見られる現象ではない。とするならば、我々が行っている会話はなんなのだろうか。
もしかしたら、ドッジボールかもしれない。
ドッジボールと会話
私が小学生の頃、ドッジボールは大人気のスポーツだった。昼休みになると、男女問わず多くの子たちが校庭に集まり、みんなでドッジボールを楽しんだ。
今の小学生もやるのだろうか。最近の昼休みはゲームのオンライン対戦だよと言われても不思議ではない気がする。
さて、ドッジボールは知っての通り「相手にキャッチされないボールをぶつけること」が目的で、キャッチボールと違い勝敗観念がはっきりしている遊びだ。
ドッジボールの投げ手は、受け手が取りにくいボールを投げるようとする。相手を負かすためだ。もし、自分のボールが相手に簡単に取られてしまった場合には、ガッカリしてしまう。
そしてドッジボールの受け手は、投げ手のボールを基本的にかわそうとする。これも相手に負けないためだ。もし、相手のボールがキャッチできそうなら受け止めて、今度は相手にボールをぶつけるモードに意識が切り替わるだろう。
さて、これらのドッジボールの意識を会話に変換してみよう。
まずは話し手。相手を負かすために取りにくいボールをぶつけにいくという行動は日常のどこにでも見られる。「こんなこともできないのか」と部下を叱る上司、学歴や会社や恋人を用いたマウント、求めてもいないのに上から目線で語ってくるアドバイス、「お前のためを思っていってるんだ」という押し付け。
こういった話し手の言動は、相手を負かしたい、相手よりも上でありたいという勝敗観念や優越感に基づいていることが多く、非常にドッジボール的だ。
次は聞き手。ドッジボールの受け手のように、相手のボールをかわしたり、受け止めてもすぐに反撃するようなマインドセットは、これまた日常で多く見られる現象だ。
もし、聞き手として相手の話に興味がなく、テキトーな相槌や返答をしていたり、次に自分が話すことを考えてばかりいるとしたら、これは極めてドッジボール的なコミュニケーションだということになる。
また、「それがどうしたの?」「そんなことも知らないの?」などの投げ手のボールを受け止めずに挑発的な答え方をするのも、同じくドッジボール的な聞き方と言える。
さて、私たちのコミュニケーションはキャッチボールなのだろうか、ドッジボールなのだろうか。
コミュニケーションの条件
先日、昔の日本人男性といった雰囲気のおじさんとコミュニケーションをとるために、私は軽めの質問をし始めた。しかし残念ながら、コミュニケーションは難航した。
その男性は相手の言葉に対して否定から入るのが癖になっており、相手の知っていることに配慮して話そうとすると「当たり前だろ」と答え、相手の知らないことを話すと「そんなわけないだろ」と言ってくる。
他にも否定的な言動を矢継ぎ早に浴びせてくるので、私は早い段階でキャッチボールを諦めた。次第に私が使う言葉は「そうですね」一色になってきた。その男性の使う言葉は、私が一切使用しない類の言葉ばかりで、人間研究という観点からは勉強になったとは言える…。
ただし、そういったコミュニケーションは年齢差だけで起こるわけではない。
今年コロナ前に北海道で旅をしていると、20歳くらいの若い男性と知り合った。彼は自称コミュ障だったが、なんと言ってもそのコミュニケーション方法に特徴があった。
こちらが何を言っても「いや…」で返してくるのだ。この時も、キャッチボールは諦めた。
上記2つの例のような、相手に対する否定語を多様するようなコミュニケーションは、相手からするとマウントや否定と感じるために、相手がキャッチボールを希望していた場合にでも、その場が容易にドッジボールコートに変化する。
私がここで言いたいのは、否定から入るようなコミュニケーションは良くないよということではない。
どちらかがドッジボール的なコミュニケーションを選択している時点で、もう片方も自然とドッジボール的なコミュニケーションに移行するということだ。
ドッジボールのコート内に入っているのに「私は平和主義なので争いは好みません」という言動が相手に効果を発揮するのを期待するのは難しい。普通は、自分の身を守るために、相手のボールを交わしたり投げ返す準備を迫れらるはずだ。
つまり、キャッチボールが成り立つのは、双方がキャッチボールをしようとしている時だけなのだ。片方だとダメだ。どうやらキャッチボールはドッジボールより劣勢らしい。
ここで、キャッチボールをコミュニケーションに見立てたときのハードルの高さの正体が見えてくる。
キャッチボールとは、子供たちの遊びとして考えたときは、2人いるだけでできる最もハードルの低い遊びなのだが、会話として考えたときは、条件が厳しい行為なのだ。
あなたの周りにはキャッチボールとドッチボールのどちらが多いだろうか?
もしあなたがキャッチボールをしたければ、恐らく方法は一つしかない。キャッチボールが上手な人と一緒にいることだ。
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参考・引用
(1)伊藤守『こころの対話 25のルール』講談社、2000年
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