「他人に期待するな」という生き方が当たり前のように推奨されるようになって久しい。もちろん誰しも信頼していた人から裏切られる経験をするものだが、なぜかこの表現は私には全くもって美しく感じられない。
親を始め、多くの人から期待されてここまで育ってきた実感や、期待していた人たちが輝いていく姿を見て喜びを感じた経験が、この言葉を拒否しているかのようだ。
そこで今回は、ライフハック的に浸透しつつある「他人に期待しない」という言葉に違和感について考えてみた。
裏切った方が悪い?
他人に期待してはいけないと説く多くの人たちが言うように、期待を裏切られたと感じた場合には多かれ少なかれショックを受けるものだ。
しかし不思議なもので「アイツは俺の期待を裏切った」という表現は「アイツが悪で俺が善」という話し手のイメージを明確に浮かび上がらせる。本当に期待を裏切る方が常に悪なのか?
実際に知っているあるご婦人の話をしよう。代々医者の家系で息子も医者になったその方は、息子の結婚相手は孫に医者になってもらうために優秀な遺伝子を持った女性しか認めないと強く息子に主張している。えーと、実際の話だ。
さて、仮に息子が自分の意志を押し通して高卒の女性と結婚したという大変な場面を想像する。ヒステリーに駆られ泣き尽くしたそのご婦人が「息子に期待したら裏切られた。やはり人に期待なんかしてはダメだ」と教訓のように話したら、あなたは「確かにその通り!」と思うだろうか。
おそらくほとんどの人がそう思わないだろう。いや、それは自業自得では…という冷めた声が聞こえてきそうだ。
つまり、他人に期待して裏切られたとしても、それは相手側にも事情があるはずだ。それにも関わらず「(裏切られるから)他人に期待しない」にしてしまうと、非は常に他人の方にあるという他責の感情が忍び寄ってくる。
何か期待通りにいかないことを人のせいにすることは一時的には楽だろうが、長期的な目線で言えば、自分の成長の機会を奪ってしまうことになる。期待通りにいかないという経験は重要で、場合によっては期待通りにいくよりも良い学びになる。
「他人に期待して裏切られた」ということが「自分の思い通りに他人が動いてくれなくて失望した」と捉えている場合には、冷静に考える必要があるだろう。そもそも、他人が自分の都合のいいように動いてくれるはずがないし、そんな必要もないのだ。
自分の子供に安定した公務員になってほしいという期待をかけて育てたが、実際はYoutuberになってしまっても、
自分の会社の未来を担ってくれると期待していたエース社員があっさり同業他社へ転職してしまっても、それは本人の選択なのだ。他人は私の期待に応えるために存在しているわけではない。
期待するという美しさ
それでも、純粋に期待するということは人の可能性に焦点を当てる、素敵な試みだ。
私は多くの日本人と同様に、メジャーリーグの大谷翔平選手の活躍に期待している。去年はホームラン王に輝くことを期待していたが、惜しくもそうはならなかった。今年はMVPに輝くことを期待しているが、そうならなくても裏切られたなんて思わずに、来年はまた活躍を期待するだろう。
思えば、自分自身がここまでくる上で多くの人に期待してもらったが、私は必ずしもそれに応えられなかった。一番身近な存在である親の期待にも現状応られていないと思っている。それでも、期待してくれた人たちのことは忘れられないし、今でも感謝している。
期待という言葉を、するだけ裏切られるから無駄だからという性悪説的に用いるよりは、誰かの可能性を信じるために使う方が贅沢な人生の味わい方だと私は信じている。
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