エーリッヒ・フロムの「愛」に対する指摘は、今日においてなお一層切れ味を増している。
彼は1956年に発表し、世界中でベストセラーになった『愛するということ』において、たいていの人が愛の問題を、愛する能力としてではなく、愛される能力の問題として捉えていると主張したのだ。(1)
人々はどうしたら認められるか、注目を浴びることができるかなど、愛される方法に夢中になっている。その為によく用いられる手段としては、男性なら「社会的成功(富と権力)」であり、女性なら「外見」だという。
そして男女共通しているのは、押し付けがましくないように謙虚そうに振る舞うことや、気の利いた態度を身につけることだとフロムは指摘する。
これは現代でも全く色褪せない意見だ。皆さんの周りで「自分の愛する能力が足りなかったから別れた」という発言をする人をどれくらい見るだろうか?
「相手のこういうところがダメだった(相手が愛されるに値しなかった)から別れた」という人と比べてどちらが多いかは、敢えて触れる必要もないだろう。
恋愛や婚活、結婚などの業界に詳しい友人によると、男性にとって「モテる」ための技術はとてもニーズのあるため、市場が大きいビジネスとして成り立っている反面、「夫婦円満」のための技術はニーズがゼロではないがとても少ないという。
シンプルに考えるならば、モテたいという感情は、自分が認められ、評価を得る、いわば愛されたいという動機から出発する。逆に、もっと夫婦円満になりたいという感情は、自分に何ができるかというニュアンスが含まれる、いわば愛する努力も伴うという表現だ。
考えれば考えるほど、愛する能力は相変わらず軽んじられており、日の目を見ない。しかし、恋愛にせよ結婚にせよ、初期はお互いの愛される能力(相手のわかりやすい魅力)に惹かれて盛り上がっていたとしても、長期的な円満の鍵を握るのは、情熱的な期間が終わった後に問われるお互いの愛する能力だろう。
多くの人が、瞬間最大風速的な恋愛だけではなく、長く続く深い愛情の関係を美しく思うし、そういう関係を築きたいと思っている。
それなのになぜ「愛する能力」という概念はまともに話にも上がらないのだろうか。
恋愛と結婚の変化
フロムは、愛に関して能力よりも対象が重要になった背景として、恋愛結婚の浸透を挙げている。西洋では、昔ながらの親や仲人が取りまとめていた結婚の形が、20世紀に入って自由恋愛からの流れにシフトした。これはタイミングの差こそあれ日本も同じだ。
昔の結婚のスタイルでは、愛は結婚してから生まれるものだったと述べられており、その状況になると、当然「愛する能力」が問われる。
しかし、自由恋愛になると、愛する能力よりもまずは選ばれることが大事になる。人々は、誰かを愛せなくとも、それは自分に愛する能力がないからではなく、相手に魅力がないからだと結論づける。問われるのは「愛される能力」だ。
そして自由恋愛は市場経済と感覚が近い。自分のニーズを満たす商品をお金と交換することに慣れた現代人は、恋愛対象や自分を商品化し、自分にとって交換可能でお買い得な商品を探す感覚に抵抗がない。
ここまで愛について分析したフロムの慧眼には驚かされるが、恋愛や結婚の市場経済化が現代ではフロムも驚くほどさらに加速しているのだ。
例えば、最近日本でも市民権を得ているマッチングアプリでは、人間の商品化がさらに先鋭的になってきている。
そこでは、写真の撮り方から自己PRの仕方、メッセージの送り方に至るまでこだわって、自分という商品を仕上げる。そして、高年収だったり自分好みの外見だったりと、様々な商品価値を分析して「自分が愛するに値する人間」を探すことに夢中になる。
もはや時代は完全に愛を「能力」ではなく「対象」の問題に追いやってしまったようだ。
愛されることに拍車をかけるSNS
この時代において、私たちに愛することではなく愛されることが重要だとさらに迫ってくるものがある。SNSだ。
SNSは基本的にフォロワーやフレンドなどの数の社会だ。誰にどれくらいのフォロワーがいるかを皆が意識している。
ではフォロワーの数とは何なのだろうか。誰かをフォローするということはその人の情報が自分にとって有益であることを意味する。つまり、フォロワーの数は何かしら自分を必要としてくれている人の数、言ってしまえば、愛され度に近い概念だと思う。
大事なのは、「自分がある人を愛しているからその人が自分をフォローしてくれている」のではなくて「相手が一方的に自分を必要としているからフォローしている」という部分だ。
つまり、フォロワーを増やす過程で愛する能力は一切問われない。フォローしてくる人に対して、自分の関心がなかろうが嫌いだろうが関係なくフォロワーは増える仕組みなのだ。
さて、先日の記事の中で、私は知り合いの女子高生に聞いた若者のSNS事情について聞いた内容をまとめた。
彼女たちの世代はほとんどみんなInstagramのアカウントを持っており、フォローしている友人の投稿に関するリアクションを迅速に行わないと、フォローを外されることもあるという。
それを聞いて思い出すことがある。私が高校の時「昔は全員のテスト成績が壁に貼り出された」という話を聞いた。つまり、トップから最下位まで、誰が何点とって何位だったのか全てオープンだったということだ。
今もそういう学校が残っているのかはわからないが、結構残酷な世界観だなーと思った記憶がある。多感な高校生たちにとって、毎回の成績を公開され比較され評価されるという仕組みは、テストの点数が人間としての価値なんだと判断させる感覚を持たせるのに十分だ。
しかし、しかしだ。
全員がInstagramのアカウントを持っていて相互監視が成り立っている世界観というのもそれに負けず劣らず残酷だ。
何しろ彼らは「テストの点数が張り出されて全員に公開されている」ように「お互いのアカウントのフォロワーやいいねの数が多くの友人に公開されている」のだ。
もちろん鍵垢と言われるような非公開アカウントが利用されることは大いにあるだろうが、高校のような狭い社会でフォロワーを無理に制限したりブロックするようなヘイトを買う行動がまかり通るとはあまり思えないため、結局はある程度の友人の間にアカウントは晒されることになるだろう。
つまり「皆のテストの点数が何点なのか」がわかる世界観と同じように「皆の愛され度(フォロワーやいいねなどのリアクションの数)が何点なのか」が公開された世界に若者は生きている。
もちろん、自分のテストの点数が何点だろうが気にしないという学生も少しはいるように、自分の愛され度がどうだろうが気にならない学生もいるだろう。しかし、思春期真っ只中の学生たちにとって「自分が周りからどう見られているか」は大抵の場合深刻な問題だ。
さらに、さらにだ。
この愛され度公開制に学生が抗うのは意外に難しいかもしれない。
テストの点数公開制は学校や教育委員会、保護者、文科省など色々な圧力を持って廃止される可能性が十分にあったし、実際時代と共に無くなってきているように見える。
それに対して、愛され度公開制の廃止に関して言えば、学校側や文科省の力はあまり当てにならない。現実的に個人の自由にそこまで踏み込んで強制力を発揮するのは難しいと考えられるからだ。
それならば、学生自らSNSをやらない、そもそもスマホを持たないという選択肢はどうだろうか。
残念ながら単純にはいきそうもない。恐らく学生たちの普段の会話はSNSに関するものに溢れており、そういった話題に一切ついていけない浦島太郎のような状況にあえて飛び込むのは覚悟がいる。
フロムが『自由からの逃走』で指摘したように、既成のシステムから自由になるためには、孤独という強烈な代償が必要になる。それは誰もが選べる選択肢ではないはずだ。
話をまとめるならば、現代の学生たちは『愛されたい気持ちを増幅させられる』環境に生きており、その環境はフロムの言う愛する技術をより影の薄いものに変化させているように思える。
SNSのない社会とは
今年3月6日のニューヨークタイムズ紙に興味深い記事が掲載された。WiーFiどころか携帯電話の電波も存在しない「クワイエット・ゾーン」に住む人々の特集だ。(2)
いやいや、別に発展途上国の山村地帯の話ではない。アメリカのウエストバージニア州、グリーンバンクという町の話だ。
ここには世界最大の電波望遠鏡があり、その使用に悪影響が出ないように電化製品に関する細かい制限が存在する。
ここに住む子供たちは、メールやソーシャルメディアとは無縁で、例えばiPhoneをクリスマスにもらったものの、ほとんど使っていない女の子のエピソードが紹介されている。
グリーンバンクに住むトーニャ・ワーダーという女性は「最近の子供たちは話そうとしないので、コミュニケーション自体が滅びかけている」と考えているが、グリーンバンク周辺においては携帯電話のサービスがないことが若者たちに非常にいい影響を与えていると話す。
「ここの子供たちは他に選択肢がないから会話をするんですよ」
会話をせざるを得ないということは、必然的に、相手の話をじっくり聞き、相手を理解しようと努力するということにつながる。SNSのように、自分が聞きたい話だけを聞き、自分が理解したい内容だけを理解するのとは対照的だ。
もちろん、相手の話をじっくり聞く能力や、相手の言わんとすることを理解する能力は、愛する能力そのものだ。
相手の話を共感的に口を挟まずじっくり聴ける人間や、相手の話を自分の経験やフィルターを一旦外して理解しようとする人は、愛情深い人と認識される。
逆に、相手の話を聞くよりも自分の話をしようとし、相手の話を自分の経験や固定観念などのフィルターを通してしか判断できない人から愛情を感じるのは難しい。
さらに、グリーンバンク周辺に住む子供たちの声も少し紹介しよう。
ブライセン・キャロルという14歳の少年は「四六時中スマホの画面をみているのは好きじゃない。今この瞬間に起きていることを楽しむのが好きなんだ」と話す。森の中を少し探検するだけで面白いものが見つけられるとのことだ。
13歳のジェナ・バクスターという女の子は「私はもう自分や周りの友達に過剰な期待を促してくるソーシャルメディアに関わらなくてすむので、とても今は幸せです。」と話す。彼女がコネチカット州にいた時は、YouTubeを見たり、ソーシャルメディアの画面をひたすらスクロールすることが全てだったが、グリーンバンクで変わったという。
このように、今自分と一緒にいるわけでもないオンライン上の人々から愛されることばかり考え、過剰な期待に応えることばかり考えなくていい環境は、子供たちを変える力を持っている。
スマート・シティは本当にスマートなのか
今年5月27日。政府が推進する「スーパーシティ構想」実現に向かうべく「スーパーシティ法案」が国会で可決された。
AIやビッグデータなどを用いて、地域課題の解決と共に利便性を向上し、未来都市を先駆けて設計するというこの計画は、海外では「スマート・シティ」と呼ばれ、様々な都市で計画が進められている。
便利なのは素晴らしいことだが、過剰なIoT化が人類を本当に幸福へと導いているのかということに関しては慎重になる必要がある。
実際、今年5月にはカナダ・オンタリオ州トロントにあるウォーターフロント地区がスマート・シティ計画から撤退した。理由の一つは、プライバシーに対する懸念のようだ。
何しろ、ビッグデータをうまく利用するためには、その地区の人の個人情報を収集して分析する必要がある。先進国を生きる現代人のセンシティブな権利意識と容易に衝突してしまうわけだ。
スマート・シティ化は果たしてQOLを高めてくれるだろうか。グリーンバンクの人たちの声を我々はどう受け止めるべきだろうか。
現在日本でもスーパーシティに複数の都市が名乗りをあげているが、個人的には、グリーンバンクのようなスロー・シティに名乗りを上げる街が現れれば、将来的な子供の教育を考慮して引っ越しを検討すると思う。一方スーパー・シティには気になる時に行ければ十分だ。
愛する技術は不要なのか
さて、現代の社会的環境を考えれば考えるほどに、すっかり霞んでしまったように見える愛する能力だが、今日の社会でも突如としてそれを要求されるタイミングがある。結婚と育児だ。
恋愛と違い、共同生活における献身性を少なからず求められる結婚は、長期的には確実に愛する能力を問われることになる。
不思議なもので、お互いが愛することを喜びとするほど成熟している場合には、夫婦はお互いに助け合うことをさほど苦に感じない。平等不平等という概念はあまり顔を覗かせない。
しかし、愛することではなく、愛されることばかり考えて生きてきた場合には、夫婦での共同生活は必ず「平等」にフォーカスが当たる。
心理学者のマイケル・ロスとフィオーレ・シコリーが行った実験を見てみよう。(3)
恋愛や夫婦の関係で、夕食の準備からデートのプランニングまで、あらゆる関係の維持に必要な努力に関して、あなたがしているのは何パーセントかを問うという内容だ。
もちろん、片方が45%と答え、もう片方が55%と答えれば、2人合わせて100%になり正常だ。だが実際は、カップルの4組に3組は100%をかなり超えるとのこと。要するに、人間は自分の貢献度を過大評価する。
私はこの役割、あなたはこの役割、と決めることは別にいいとしても、そこに愛がないと自分ばかりが苦労しているという不平等感がどこかで顔を覗かせることになる。
残念ながら、我々の社会は平等を強調する割に、我々の感情は極めて主観的に自分が不平等な扱いを受けているというふうに捉えやすいため、結果として平等という概念は不満を増長する。
かくして、結婚は「破綻」「我慢」「諦観」「苦痛」などの概念と結びつき、結婚に対する先人たちが残してきた、結婚は人生の墓場的なシニカルなメタファーが何度でも再現されていくことになる。
現代人もあまりにかわいそうだ。愛する能力を一切強調されず、教えられることもなく、結婚と同時にいきなり要求されるのだから。
都会で何の不自由もなく生活していたら、いきなり無人島に投げ出され、今まで考えたこともなかったサバイバル能力を問われるようなものだ。
その上、子育てとなるとさらなる献身性が要求されるため、より愛する能力が問われることになる。それが難しい場合、教育は「虐待」「押し付け」「無視」などに現象化する。
また、定年退職後、友人もおらず、一日中テレビを見続けることしかやることがないおじさんたちが時々話題になるが、これも現象としては同じだ。
仕事上必要だった人間関係は、愛から切り離されていることが多い。自分に肩書きや役職がなくなった後の人間関係は、自分が愛した(愛された)ものだけが残る。家族だけではなく、友人関係にもこの事実は突きつけられることになるのだ。
我々の社会は、愛するという味わいを取り戻すことができるだろうか。最後にフロムの『愛するということ』から愛の美しさがよく現れている箇所を引用して終わりにする。
幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則にしたがう。成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。未成熟な愛は「あなたが必要だから、あなたを愛する」と言い、成熟した愛は「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」と言う。
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参考・引用
(1)エーリッヒ・フロム『愛するということ』紀伊國屋書店、2020年
(2)https://www-nytimes-com.cdn.ampproject.org/v/s/www.nytimes.com/2020/03/06/us/green-bank-west-virginia-quiet-zone.amp.html?usqp=mq331AQRKAGYAfKx5KvC0sXztwGwASA%3D&_js_v=0.1#
(3)アダム・グラント『GIVE &TAKE 「与える人」こそ成功する時代』三笠書房、2014年
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