すぐには共感できないけど、私がもしあなたの立場ならそういうふうに思うのはわかる
という概念を名詞化したら、世界はもっと平和になりはしないだろうか。つまり、自分が理解できない相手の行動や発想にすぐにNOを突きつけるのではなく、相手の世界観にシンクロして物事を考える態度だ。
そういう概念を浸透させることは多様性社会にとって重要であると共に、それが出来なけば多様性社会というのは、価値観の違いによる無数の壁がそびえ立つ断絶社会になると思う。
SNSに見る善悪闘争
SNSの台頭によって「いいね」をもらうことが重視されるようになり、それだけではなく、個々人の投稿や意見に対してGoodかBadの意味を持つボタンを押させる仕組みが発達した。
こういった仕組みは直感的に即座にボタンを押させるよう誘導してくるので、瞬発的にNoだと思ったら相手にbadを突きつけることになる。
こうしたすぐに善悪判断を下すような仕組みは、思考停止を促すと共に他者理解を難しくする可能性がある。
誰かの言動に対して、論理的な矛盾や、感覚的な違和感を感じた時、我々は反対する。しかし、その人はなぜそういう言動に至ったのかということを、一旦自分の賛同できない気持ちを放置して、冷静に考えることで人間は視野が広くなり、人の気持ちを理解していくようになる。
自分の価値観や感覚では理解できない人の言動に出会うことは、ものすごい成長の機会だと思う。それは、今まで知らなかった知識を学ぶことや、自分の知らない歴史の体験談を聞くことと同じようなものだ。
しかし、残念ながら目の前に高く積み上げられたGoodやBadの数は、私たちを「自分から積極的に他者理解をしようという態度」から「周りの意見への同調、迎合」にシフトさせる。深掘りする時間は与えてくれない。
合わないという面白さ
合わない人と積極的に付き合う必要はないと思うが、合わない人は世界の違う見方を提供してくれるとてもありがたい存在でもある。
また、すぐに共感できなくとも、その人の立場ならそういうふうに思うのはわかるという感覚が研ぎ澄まされていくと、正しさから解放される。
そういう感性が育っていなければ、「あの人はおかしい」「自分が正しい」「何でそんなこともわからないのか」といった正義のぶつかり合いによる宗教戦争は避けられない。
この手の宗教戦争がテレビでもSNSでも盛んに展開されているのを見ると、我々は正義の奴隷になっているのだと理解させられる。自分が正しいことを証明するために誰も彼もが必死だ。
数学や物理学の議論をするのでもないならば、人の意見というのは、私が正しければ相手が間違っていることになるのでもなく、相手が正しいから私が間違っているわけでもない。
ただ自分の景色と相手の景色は異なって見えているのだ。正しさの奴隷であることをやめれば、変に自分の正しさを主張する必要も、相手を責める必要もない。
自分が見たことない景色をスクショしたら、次は同じような景色を見ている人がいても理解できる。合わない人を発見するということは面白いことなのだ。
見たことないポケモンがいたら、変だというレッテルを貼るのではなく、ただポケモン図鑑に登録する。そのポケモンは独特の特徴があり、それは正義も悪というものではない。誰でも知っている。
しかし、ポケモンではなく人間になった瞬間にそれが出来なくなる。なんとも複雑だ。
自分の価値観というフィルターをなくして他者理解をする。たったそれだけのことで、世界が平和になっていくのではないかと妄想している。難しいだろうか。
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