パートナーをディスって盛り上がる不思議な文化

今回は少し尖った話になる。どうしても解せないことがあるのだ。

それは、つい先日、今年の優秀100句が発表されたサラリーマン川柳のことだ。このサラリーマン川柳は人気があり、知名度も高いと思うが、ブラックユーモア的な手法で身内を皮肉るネタがどうしても好きになれない。

最初に誤解されないように言っておくと、私はサラリーマン川柳のコンセプト自体は好きだし、そもそも川柳は日本語という繊細な言語を用いた素晴らしい文化だと思う。

ただどうしても、夫婦関係や家族関係の悪さを利用して盛り上がるネタだけは苦手なのだ。

例えば、年ごとの歴代1位作品には次のような作品がある。

「プロポーズ あの日にかえって ことわりたい」(2000年)
「いい夫婦 今じゃどうでも いい夫婦」(2013年)
「うちの嫁 後ろ姿は フナッシー」(2014年)
「退職金 もらった瞬間 妻ドローン」(2015年)

これらの川柳は数ある多くの中から選ばれた、その年で一番人気の作品なのだ。

正直とても趣味が悪いと思っている。今回は、自分がどうしてこういった川柳が苦手なのか、思考の整理をしてみたい。

夫婦関係は悪くて当たり前?

まず明確にしておきたいのは、こういったブラックユーモアは半分冗談だというのは私も理解している。

だが、気になるのはもう半分は事実だということ。つまり、夫婦関係が良好な人はこのような作品を絶対に作らない。いや、作れない。実際と違いすぎてイメージができないからだ。

そしてこういった作品が選ばれるまでには、主催している企業による選抜や一般の方によるオンライン投票などの過程を通過する。

これが意味するところは、夫婦不和のネタは一般的に共感を呼んでいるということになる。

違う内容で考えてみよう。例えば「変な上司がいたので会社を入社3日で辞めた」という内容を、絶妙なブラックユーモアで上司を皮肉りつつセンスのある川柳に仕上げたとしよう。

その川柳がいかに芸術的に素晴らしくても、共感を呼んで取り上げられる句になるだろうか?

ならないと思うのは私だけじゃないだろう。「それは甘えだ」とか「そんなのお前だけだ」というような共感とは逆のリアクションが返ってくるのが容易に想像できる。実際に3日で辞める人がほとんど居ない以上、共感されにくいからだ。

同じように、全体の99%の夫婦が円満であれば、夫婦不和のネタは上記の「3日で辞めました」ネタのように相手にもされない川柳になるはずだ。

つまり、「夫婦関係は悪くて当然だよね?」というある種のコンセンサスに基づいてブラックユーモアは幅を利かせていることになる。あるあると共感できるからこそネタになるはず。

そう!その前提こそがなんかモヤモヤして気持ち悪いのだ。

見逃される夫婦不和

もちろん長く一緒に夫婦として生活する以上、様々なトラブルが起こること自体は避けられない。また、夫婦間の不満を誰かに相談したり吐き出したりすること自体は必要だと思う。

しかし、何かしらの問題があることと、それをあえてブラックユーモアとして公表するのとでは全く話が違う。

子供が学校でいじめられて不登校になっていること」や「子供が大人になっても働けずに家で子供部屋おじさんになっている」ことはネタにはならない。

そんなことを川柳のネタにするのであれば、不謹慎な笑えない冗談と認定されるのは間違いない。それならば、夫婦不和はなぜ許されてしまうのか?

個人的な意見としては、不登校や子供部屋おじさんと違い、夫婦不和はどこの家庭にも程度の違いこそあれ起こることであり、大した問題ではないと思っている人が多いからではないだろうか。

そしてその解釈は、夫婦仲が悪い人たちにとって「不仲は自分のせいではない」という安心感を得るのに一役買っている。

確かに、実際に夫婦不和が大した問題ではないのであればそれでも構わないのかもしれない。しかし、そう言い切れるだろうか。

繊細で敏感な子供たち

英オックスフォード大学とバーミンガム大学で行われた研究によると、10代の子供たちは共に時間を過ごす人の感情をより敏感に感じ取り、その中でもポジティブな感情よりもネガティブな感情の影響を受けやすいという。(1)

しかも、子供の世界は大人の世界に比べてより固定化されており、夫婦不和のような状況は子供の意志で解決できないにもかかわらず、親元を離れて回避することができない。

子供の頃を思い出してみてほしい。親のイライラしている態度やピリピリした雰囲気などに、強い圧迫感やストレスを感じた経験を持たない人の方が少ないのではないだろうか

私自身、多くの大学生の話を聞いてきたが、親が不仲だったことが傷になっている子は少なくない。もちろん、そのことを親に言っていない場合も多く、親自身が自分たちの振る舞いのせいで我が子を傷つけてきたと自覚していないケースも多々ある。

さらに繊細な話なのだが、こちらから客観的に話を聞いていると、明らかに親の不仲に傷ついているが子供が気づいていない場合もある。気づいていないというよりも、気づきたくないという方が正確だろうか。

つまり、親は自分のために苦労してきたし、自分も親が好きだから、親のことを悪く思ってはいけないという自己暗示を自分にかけている。こういうケースは、爆弾が時限式になっており、後になって自己暗示が解け、爆発して大変なことになったりする。

そもそも、子供とは親が愛し合った結実として生まれる。子供のアイデンティティの出発点は親の夫婦愛なのだ。

それにもかかわらず、夫婦が喧嘩ばかりしていたり、お互いを尊重せず軽蔑している場合には、子供のアイデンティティは崩壊する。夫婦愛が消えれば、自分が生まれた意味そのものが消えるからだ。

一般的に教育熱心と言われる親たちは、子供を早くから塾に行かせたり、習い事をさせたり、留学に行かせたりと一生懸命になっている。

それはそれで各家庭の自由な選択なのだが、もし「子供の幸せ」が目的である場合には、最も投資効果が高いのは塾でも習い事でもなく夫婦円満であることだと私は確信している。

何が問題なのか

上記の内容を踏まえると、夫婦不和は、2人だけがストレスになっているというのならまだしも、子供がいる場合には「問題」だと考えざるを得ない。不登校や子供部屋おじさんが問題となるように、夫婦不和も深刻だ。

ただし、誤解のないように強調したいのは、夫婦不和そのものを責めたいと私は思っていない。夫婦円満に向かうには双方の弛まぬ努力がどうしても必要になるし、複雑な事情がある場合だって多い。誰もが簡単に円満というわけにはいかない。

だが、私がどうしても違和感を感じるのは「夫婦不和にもかかわらず、そんなのどこの家庭だって同じだからと問題を曖昧にして相手をディスって盛り上がる文化」だ。

例えば次のようなシチュエーションを想像して欲しい。

高校の教室に10人の生徒がおり、とある大学で以前出された数学の難問を解いている。結局その問題をなんとか解けたのは1人だけだったが、そのことはまだ誰も知らない。

もし、その後に先生が「さっきの問題は難しすぎるから解けなくても仕方ない」と発言し、ある生徒が「あんなの解けるわけない」と同調したとする。

そうすると、問題が解けなかった生徒たちのフラストレーションが爆発し「あんな問題作るなんて、そもそも製作者側がおかしい」とまで誰かが言い出してしまった。もちろんそれにも解けなかった生徒は同調した。

結局、そこまで盛り上がってしまったため、問題を解けたたった1人の生徒はそのことを言い出すことができず、静観を決めた。この時点で、皆が問題を解ける可能性は潰えた。

これは典型的な傷を舐め合う発展性のない文化だが、先生が「解けなくて当然」ではなく、逆に「この問題を解けた人はいるか?」と聞いていた場合はどうなるだろうか。

たった1人問題を解けた人物がそれを説明することで、他の何人かが次に同じような問題があった場合に解けるようになる可能性は十分にある。

難しいからできなくて当たり前ということを強調すると、自分の努力を軽視するようになり、ひどい場合は問題製作者のせいにして、できない者どうしで傷を舐め合う。

しかし、できる人もいるからそこから学ぼうということを強調すると、何人かは学んで同じようにできるようになる。

私がサラリーマン川柳のセレクションから感じるのは、その圧倒的な傷の舐め合い感なのだ。どうして家族愛を強調するものより逆の方が多く選ばれるのか、不思議でならない。

数学の問題を解けないより解ける方がいいと誰でもわかっているように、夫婦仲が悪いより良い方が好ましいことは誰でもわかっているはずなのに。

1対1のパートナーという普遍的な要素

近年世界的に広がっている性善説的な思想を補完する意味で、昨年とても影響を受けた本に『ブループリント:「よい未来」を築くための進化論と人類史(上)』がある。(2)

この本では、人類が長い歴史を築くにあたって、様々な家族形態や組織形態を試してきた中で、この要素を捨てた場合には、人間は必ず滅亡に向かったという大切な要素を8つ定義している。

その中の1つが「パートナーや子供への愛情」だ。

不思議なことに、人間は特定の1人をパートナーと認識し、愛そうとするという特性がある。

いやいや、それはない。一夫多妻制のようなシステムがいくらでも存在したじゃないかという風に思う人は当然いるだろう。

実は一夫多妻制だからといって、それぞれの妻たちは、別に自分と夫が一対一の関係じゃなくても構わないとは思っていないのだ。

例えば、69の非姉妹型の一夫多妻婚文化に関するある調査では、妻どうしの仲がいいと言える社会は一つとして見つからなかったという。妻たちは、他の妻たちが自分の子度を優遇するため、他の子供を毒殺しようとしているのではないかという恐怖やストレスを感じていた。

つまり妻たちは、一夫多妻制だが、自分と夫が一対一の関係であり、他よりも特別でありたいという感情を全く放棄していない。

別の観点で興味深いのは、チベットにおけるナ族の結婚制度だ。

ナ族のシステムは、「パートナーと一対一の独占的関係を結びたい」という欲求よりも「複数のパートナーを所有したい」という欲求を重視したものとなっており、言ってしまえばフリーセックスのような文化だ。

女性は夜に誰を家に誘ってもいいし、毎日違う人を誘っても問題にならないという独特の慣習があり、男性は自分の好意のある女性が他の男性と関係を持っていることに嫉妬すると、器が小さいと言われてしまうような世界観なのだ。

しかし、ここには実は抜け道がある。お互いの同意があれば、性の独占的関係を結ぶこともできる。(ただし、それは性に限った話だけであって、一緒に結婚生活をすることはない。)

また、深い愛情の関係を築きたい男女が、結婚制度がない村から飛び出して駆け落ちするというケースも見られるようだ。彼らは複数の相手を自由につくれるという権利を捨ててまで、一対一の夫婦の絆を結ぼうとする。

このように自由にどんな異性とも関係を持てる社会になっても「1人のパートナーを持ちたい」という人間の根本的欲求を破壊することができないというのは実に面白い。

もちろん、アフリカやチベットなどの特殊な結婚制度を持つ地域を訪ねなくても、同じ傾向を発見できる。

2015年、アメリカの連邦最高裁は全米における同性婚の合法化を決定した。そしてその翌年に渡米した私は、ラスベガスの大学生から次のようなことを耳にした。

特に若者たちの間で、同性婚の合法化の次は、一夫多妻制や多重恋愛の合法化を目指すべきという話が盛り上がっていると。

当時はすごい急展開だと思ったものだが、アフリカだろうがチベットだろうが欧米ろうが行き着く先は同じなのだなとわからせてくれたのは、数ヶ月前に見た英ガーディアン紙の記事だった。(3)

その記事は、ポリアモリー(お互いが複数のパートナーを持つライフスタイル)生活をするオーストラリア人に対する6つの質問というシンプルな構成になっていた。

インタビューを受けている男性には妻の他にもう1人のパートナーがおり、妻にも男性の他に数人のパートナーがいるようだ。

さて、注目の質問は2問目。「嫉妬しないんですか?」という内容がぶつけられた。

それに対する男性の返答は、嫉妬するというものだった。自分のパートナーが他の誰かと幸せな時間を過ごしていることに対し、嫉妬の感情をコントロールできず、お風呂の壁のタイルを叩き割ったり、パニックで発作になったこともあるという。

また、パニック発作になると、パートナーにもっとふさわしい別の誰かが現れて自分が捨てれらるのではないかという恐怖で押し潰されそうにもなったと彼は語る。

正直、自分でポリアモリーを選んでおいて、それはギャグなんじゃないかと突っ込みたくはなるが、結局のところ、ポリアモリーを実行する人たちでさえ、1対1のパートナーとの絆に飢えていた。文字通り狂ってしまうほどに。

理想と現実

長い歴史を通して捨てられなかったのが、パートナーとの絆を求める欲求であるならば、傷を舐め合って盛り上がるのではなく、それをどのように深めるかという部分にもう少しフォーカスを当てるなり、投資するのが賢い選択ではないのだろうか。

仲が良くない相手とずっと耐え忍んで共存するのはあまりにも不自然だ。そういう環境に慣れてしまっているから、夫婦円満な人にとっては不思議としか言いようがない川柳が注目されるのではないのだろうか。

別に道がないわけではないはずだ。何しろ数学の問題を解けた生徒が1人居たように、夫婦円満な家庭も確実に存在するのだから。

そして願わくば、ディスり合う夫婦の声ばかりではなく、そういう人たちの幸せな声も若い人たちに届きますように。

ブループリント:「よい未来」を築くための進化論と人類史(上) (NewsPicksパブリッシング) Kindle版

参考・引用
(1)https://www.theguardian.com/society/2021/jan/20/teenagers-can-catch-moods-from-friends-study-finds/

(2)ニコラス・クリスタキス『ブループリント:「よい未来」を築くための進化論と人類史(上)』NewsPicksパブリッシング、2020年

(3)https://www.theguardian.com/lifeandstyle/2020/sep/02/do-you-get-jealous-the-six-questions-i-always-get-asked-about-being-polyamorous

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ABOUTこの記事をかいた人

IQ155オーバーだが、自信があるのはEQ(心の知能指数)の方で、繊細な感受性の持ち主。 大学時代に週末はあらゆる大学生と人生を語り合うことに費やした結果、人を見下していた尖り切った人生から、人の感情を共感し理解する相談役の人生へとコペルニクス的転回を果たす。 これからの時代は感情の時代になると確信しており、感情のあり方が幸せに直結するとの考えから、複雑な感情の流れを論理的に整理することに挑戦している。 モットーは Make the invisible visible 詳しい自己紹介はこちら