人類はエゴを克服できるのか

もし、あなたの会社の商品が使用されれば使用されるほど、ユーザーが幸福から離れていくとしたら、あなたはどのような決断をするだろうか。

あなたが自分の会社に愛着があるのならば、自分の会社が社会にとって必要である理由を無理にでも考え出すかもしれない。でも、本当に社会や人間にマイナスの影響を与えているとしたら?

それなら、悪影響を与えている商品だけ販売を中止すればいいと考えるかもしれない。しかし、その商品こそがあなたの会社のコンセプトそのものであり1番の主力商品だとしたら?

自分の仕事が、実際のところ存在しない方が世の中の為になるとわかった時、人はどう行動するのか、私はとても関心を持っている。

自分が大切にしてきたものや今の自分の生活を捨ててでも、社会正義に向かうのか。それとも、自分のために社会正義を犠牲にする論理を構築するのか。

私が個人的に見てきた範囲だと、自分や自分の会社のために顧客や社会を犠牲にするというケースの方が圧倒的に多かった。

しかし、稀なケースもある。

今年5月、アメリカの大手動画配信サービスのNetflixは、一定期間サービスを利用していない会員に確認の連絡をし、反応がない場合は自動解約にすると発表した。このような倫理観や社会正義を優先して利益を度外視する態度はとても珍しい。

何しろ、Netflixのような定額制のサービスにとって、契約を忘れている、あるいは使っていないけど気にしていないような顧客は、資本主義の観点からはとてもありがたい存在だ。使っていないのにお金を払い続けてくれるのだから。

実際に、インターネットの発展と共に、定額制のサービスは増え続け、企業は解約を難しくすることに躍起になった。Webサイトのトップページからは解約方法が見つからないのは当たり前で、解約窓口に電話しても常に混み合っているサービスや、契約は簡単なのに、解約は電話で対応していないサービスも存在する。

携帯電話の大手が採用していた、2年の中で1ヶ月だけしかない更新月に解約しなければ、違約金を1万円ほど取られていた、悪名高き「2年縛り」が廃止されたのはまだつい去年のことだ。それも、Netflixのように、企業側が「これは倫理的に良くない」と自主的に廃止したわけじゃない。総務省がテコ入れしたのだ。

そして今。自社の利益か人類の幸福かの選択が注目される企業が存在する。

Facebookだ。

最高の体験の行方

イスラエルの歴史学者であるユヴァル・ノア・ハラリのFacebookに対する意見を引用しよう。(1)

ザッカーバーグは、フェイスブックはこれからも一生懸命に「みなさんに自分の経験を」他者と「シェアする力を提供するツールの改良を重ねていく」と述べた。とはいえ、人々が本当に必要としているのは、自分自身の経験と接触するツールかもしれない。人々は、「経験をシェアする」という名目で、自分に起こっていることを、他人にどう見えるかという観点から理解することを促される。何か胸の躍るようなことが起これば、フェイスブックのユーザーは本能的にスマートフォンを取り出し、写真を撮り、投稿し、「いいね!」という反応が返ってくるのを待つ。その間、彼らは自分自身がどう感じているのかには、ほとんど注意を払わない。それどころか、彼らがどう感じるかは、オンラインの反応によってしだいに決まるようになってきている。 自分の体や感覚や身体的環境と疎遠になった人々は、疎外感を抱いたり混乱を覚えたりしている可能性が高い。(中略)今までのところ、フェイスブック自体のビジネスモデルは、たとえオフラインの活動に充てる時間とエネルギーが減ることになっても、より多くの時間をオンラインで費やすように人々を奨励する。フェイスブックは、本当に必要なときにだけインターネットに接続し、自分の身体的環境と自分自身の体や感覚にもっと注意を向けるように、人々を奨励する新しいモデルを採用できるだろうか?株主たちはこのモデルをどう思うだろう?

実に鋭い指摘だ。人類は、食事中にもスマートフォンに夢中で、その料理の味わいに集中することが難しくなってきている。そして食卓のテーブルに共に座っている家族や友人との会話に集中することさえ、簡単ではないと感じている人がいるはずだ。家族や友人は私との会話よりもスマートフォンに夢中だからだ。

また、人々は旅行に行った時でさえ、その時の体験に集中することができず、インスタ映えする写真が撮れるかが意識に上る。そしてSNSに投稿した後は旅行中にも関わらずリアクションが気になって仕方がなくなる。

体験をシェアするために自分自身の体験を失っているというこのシュールな状況は、若者を中心として既に取り返しのつかないレベルで広がっている。

SNSという名の監獄

先日、知り合いの女子高生と久しぶりにじっくり話す機会があった。

年下と話す時はいつもワクワクする。年下の感覚を通して未来の景色を垣間見ることができるからだ。自分と違う価値観や世界観の中に生きていることを感じられる体験は貴重だ。

彼女たちが1番使っているSNSはFacebook傘下のInstagram。学校にみんながスマホを持っていき、Instagram上での情報交換は活発に行われるという。

私自身は、高校時代にスマホが普及していた世代ではないので、話自体はとても新鮮だったが、1つ強い懸念を覚える内容もあった。

誰もがInstagramのアカウントを持っており、クラスや部活を始め、密にフォローしあって繋がっている故に、誰かの投稿に対して素早くいいねをしなきゃいけないと言うのだ。

彼女が1つの基準にしているのは投稿から3時間以内。それを超えると印象が悪くなる気がしているという。彼女の人生は「友人の投稿から3時間以内にいいねをつける」というストイックな縛りの中で成立していた。

私は疑問に思って尋ねた。もしいいねなどのリアクションをしなかったらどうなるの?と。

彼女が言うには、もちろん気にしない人もいるが、良くない印象を持つ人や、最悪フォローを外してくる人さえいるという。だからリアクションせざるを得ないと。

これは強烈な世界観だ。彼女の周りには24時間体制で友人が身の回りにいる。テレビを見ていても、勉強をしていても、自分の趣味に没頭していても、例え休日に自分の部屋でゆっくりしていたとしても、SNSを通して「どう見られるか」を意識しながら生活しているということだ。Instagramに定休日や営業時間外という概念は存在しない。

おそらくこれを読んでいる大人の皆さんは、いいねしないくらいでフォローを外されたり、嫌な印象を持たれるような人ならば、そもそも付き合わないでいいのではないかと疑問を抱くかもしれない。

確かに大人であればそういった選択肢を比較的取りやすい。仕事の人間関係が重要とは言え、最近では社員旅行も少ないし、飲み会の参加への強制力も社会的には弱まってきている。SNSで無理に他の社員とつながる必要もないだろう。

そもそも、大人には仕事以外のプライベートな人間関係も多く存在する。自分が仲良くしたい人とだけ仲良くするという自由が保障されやすい。

しかし、学生は違う。学生にとって学校は世界のほとんど全てなのだ。また、1人の友達は、他の多くの学生とつながっている。その1人の自分に対する悪い噂は、自分の生存環境に変化を及ぼしても不思議ではない。友達からフォローを外されるというのはそういう意味だ。

さらに言えば、狭い学校内での付き合いにはスクールカーストが存在する。私は5年ほど前、大学生数十名に、中学や高校時代にスクールカーストを意識していたか聞いてみたことがある。

男子学生に関しては、意識していた人もあまり考えたことなかった人もいたが、女子学生は全員スクールカーストの存在を強く意識していた。女子学生の意見で面白かったのは、男子学生がスクールカーストを意識しているか否かに関わらず、男子学生たちのスクールカーストの構造まで分析して、予想していたことだ。

そういった事情を考慮すると、女子高生たちが学校の中での序列や関係性に凄まじいほどの意識を割いている以上、そこに歪みを生じさせかねないSNS上での行動は控えねばならないだろう。

SNSがない時代においては、自分の気が合わない同級生がいても、学校内だけ無難に付き合っていればよかった。しかし今は違う。気の合わない同級生だったとしても、相手がフォローしてくれば、自分もフォローしないのは明らかに変だ。そして、フォローしてしまった以上、いいねの義務が生じ始める。

かくして、仲の良い友人だけでなく、仲がいいわけでもない人の人生を覗き、その人の人生に3時間以内にリアクションをすることを求められる世界観が形成される。そして、その手の通知は頻繁に飛んでくる。さて、人は本当にSNSによって幸せになったのだろうか。

そして、話はここで終わらない。

件の女子高生は、どこに行くにも常にスマホを気にしていた。移動中、食事中、会話中、もう何をしててもスマホが親友だ。

特に興味深かったのは、一対一で話す時もずっとスマホの画面に夢中で、こちらを見ないで会話をする場面もあったことだ。私の周囲の人間関係では見られないコミュニケーションスタイルだった。

だからと言って、話していて違和感のあるような変わった子ではない。その子はどこにでもある県立高校の真面目な学生で、体育会系の部活を頑張っている。別に不良でもなければ、闇を抱えているわけでもない。将来の夢もはっきりしていて、そのために努力もしている。

私は仮説を立てた。恐らく、彼女の周りの学生たちの多くがそういうコミュニケーションスタイルなので、彼女の中ではそれが自然なのではないかと。案の定、聞いてみたらそうだということだった。その上、彼女の周りもみんなスマホ中毒で、彼女よりも酷い人もたくさんいるという。

ハラリが言及した「今自分が感じていること」に集中する能力の欠如は、未来を象徴するはずの若者たちにとって特に深刻かもしれない。

それでは、他者の生活を24時間見ながらリアクションを迫られる監獄に追いやられ、ドーパミンに支配され、1番の親友はスマホになっている若者たちを、FacebookやInstagramは自社の利益を損ねてでも救ってくれるだろうか。

自己中心性との戦い

さて、企業だけではなく、個人に焦点を当ててみよう。

弁護士は、自分が弁護する被告人が明らかに大きな犯罪を犯したことがわかって、罪を償った方が良いと感じた場合には、自分の仕事上の名声や金銭的報酬を犠牲にしてでも、良心に従って無理に無罪を勝ち取ることをやめるだろうか。

また、政治家は明らかに自分以上に素晴らしい政治家が現れた場合には、あっさり自分の議席を譲るだろうか。また、自分が世間から支持されていない場合には、自分は国に貢献していないと悟って身を引くだろうか。

ほとんどの人が答えはNoだと言いたくなっていることだろう。歴史の中で人間は多くを学び、その叡知を持って科学を発展させてきたが、精神性は残念ながらいまだに未熟だ。

しかし結論づけるのはまだ早い。弁護士や政治家の名誉にかけて、1人の人物を紹介しようと思う。

善人すぎた男

その男は弁護士として、高い評価を得ていながら、成功を自分から手放すことがあった。彼は、依頼人が有罪だと感じると、どうしてもそれ以上弁護する気になれなかったのだ。(2)

ある刑事裁判では、彼は同僚に多額の弁護料のかかった仕事を譲った。「被告は有罪だ。自分には弁護できない。」という理由だった。お金や名声よりも自分の良心に従う彼の姿勢はやがて周りにも知られるようになった。

そして彼が45歳の時、国会議員へ出馬した。

主な候補者は3名。彼と、現職の知事と、元最高裁判事。彼以外の2人は特権階級の出身者だが、彼には何の政治的影響力もなかった。

そんな中、選挙の途中経過では、現職の知事が44%、彼が38%、元最高裁判事が9%というところまできた。

しかし、ここで彼はとんでもない行動に出る。これだけの支持を得ながら、ギリギリのタイミングで選挙戦から撤退し、自分の支持者に対しては、元最高裁判事を支持するように急な方針転換をしたのだった。

その結果、現職の知事47%、元最高判事51%という大逆転劇が起きた。

いったい彼は何を考えていたのだろうか。

実は、現職の知事には不正の疑惑があり、彼はその情報が様々なところから入ってきていた。彼は途中経過を見て「自分が当選することよりも、現職の知事が当選しないことが国のためになる」と考え、自分と主義主張に共通点があった元最高裁判事に全ての票を託して、当選に導いたのだった。

彼は相変わらず、驚異的な利他主義者だったのだ。

案の定、彼の予感は的中する。一年後、その知事は、莫大な現金を不正に入手していた事実が発覚し、詐欺罪で起訴された。

それならば、結局彼は国会議員になれなかったのかというと、実はドラマが待っていた。二度の落選を経験はしたが、最終的に彼は当選した。その背後には、彼が当選するように最も支援し、さらに政治家となってからも応援し続けた人物がいた。何と、票を譲った元最高判事の支援者の中のリーダーだった。受けた恩を決して忘れなかったのだ。

最終的に、彼は政治家として国のトップにまで立つことになる。その最高の地位まで上り詰めてもなお、彼はエゴよりも国益を徹底的に優先した。

彼が選んだ閣僚は全て、自分よりも知名度も学歴も、公職の経験もある人物だった。その中には、自分に敵意を持つライバルさえいた。彼はさらりと言ってのけた「閣僚には党内で一番有力な人材が必要だった」

さて、首尾一貫してエゴではなく、より大きな利益のために行動し続けた彼は一体何者なのだろうか。

彼の名はエイブラハム・リンカーン。奴隷解放の父と呼ばれ、アメリカ史上最も偉大な大統領の1人として名高い人物だ。

実際にアメリカのワシントンD.C.のナショナルモールに行くと、その広大な敷地面積を誇る公園の西端にリンカーン記念堂が立っている。1人の大統領が、国の政治都市の中心部で讃えられている意味が、彼の生き様からは感じられる。

感情の導く先

会社や個人の例を見てきたが、結局エゴとの戦いに知識や論理的思考はあまり役に立たない。

何故なら、人間は自分の利益に関わることになると、感情を1番のベースにして論理を展開するからだ。

つまり、「自分の会社が損したくない」という感情が先にあって、「自分の会社がいかに正しいか」という論理を構築するし、「議論に負けたくない、馬鹿にされたくない」という感情が先にあって、「相手がいかに間違っているか」という論理を展開する。

裁判なんかを見てもわかるように、それらしい論理は作り放題なので、結局論理的思考はエゴによっていくらでも振り回されるのだ。

リンカーン大統領が、閣僚で自分より優秀な人物しか起用しなかったのはあまりにも理にかなった判断だ。小学生でもそれが論理的だと容易に理解するだろう。ただし、ほとんどの大統領や首相はそんな行動を取れない。

感情が許さないからだ。リンカーンはエゴをコントロールしていたからこそ真に論理的な行動を取ることができた。

だからこのブログでずっとそうしているように、感情に注目せざるを得ない。感情について考えざるを得ない。国家レベルの問題から、職場での人間関係の確執、家族や友人との衝突、全ては感情が大きく絡む。

自分のエゴとどう向き合っていくのかというのも、人生でとても大切なテーマの一つのはずだ。

人類はお金や技術に関心を持ちすぎて、感情をあまりにも蔑ろにしているようにみえる。我々の人生を真に左右しているのは、お金でもテクノロジーでもない。感情だ。

参考・引用
(1)ユヴァル・ノア・ハラリ『21 Lessons –21世紀の人類のための21の思考』河出書房新社、2019年
(2)アダム・グラント『GIVE &TAKE 「与える人」こそ成功する時代』三笠書房、2014年

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ABOUTこの記事をかいた人

IQ155オーバーだが、自信があるのはEQ(心の知能指数)の方で、繊細な感受性の持ち主。 大学時代に週末はあらゆる大学生と人生を語り合うことに費やした結果、人を見下していた尖り切った人生から、人の感情を共感し理解する相談役の人生へとコペルニクス的転回を果たす。 これからの時代は感情の時代になると確信しており、感情のあり方が幸せに直結するとの考えから、複雑な感情の流れを論理的に整理することに挑戦している。 モットーは Make the invisible visible 詳しい自己紹介はこちら