あなたは人間をどう考えるか

今日は人間について考えたい。

あなたが親である場合、子供を塾に行かせたり、細かく勉強時間をチェックする方が子供のためになると考えるだろうか、それともより子供の自主性や主体性に任せるべきと判断するだろうか。

また、あなたが上司であるならば、部下を細かく管理しなければ怠けてしまうと考えるだろうか、それとも部下を信じて権限を委譲した方が部下のためになると判断するだろうか。

もちろんこういった問いは、人や状況によって大きく意味を変えるため、唯一解は存在しない。ただ、そこであなたがどう判断するかは、確実にあなたの「人間観」を反映している。

昨年12月、オーストラリアのアカデミックニュースサイト The Conversationに、日本とスウェーデンにおける独自的なコロナ対策に関する記事が掲載された。(1)

日本とスウェーデンはコロナ禍においてロックダウンを強行しないという、世界的に見て例外的な対策をとった国であり、そこには共通点があると記事は指摘する。

スウェーデンは、ロックダウンどころか、バーやレストラン、ジムさえも閉鎖しないという独自路線をとり、マスクの着用さえも義務付けていなかった。

その対策の根幹にあるのは「人間観」。スウェーデンのステファン・ローベン首相は「スウェーデン人特有の良識、モラル」を意味する「folkvett(フォークヴェット)」を活かし、自主的に勧告に従って欲しいと強調した。

スウェーデン人はロックダウンなどしなくとも、自主的に良識的な行動をもってウイルスに対処できる、と考えたわけだ。

結果的に、昨年10月あたりからスウェーデンでも爆発的に感染が広がり、コロナ対策が失敗したという見方が広がってはいるが、そこは今回の論点ではないので置いておく。このように人間観が行動に影響を及ぼすのは政府レベルでも同様だ。

日本でも第1波や第2派を抑えた際に、当時の安倍総理や麻生副総理から「特有の日本方式」や「他国よりも民度が高い」などの発言が見られた。政府の持つ国民に対する人間観が、独自のコロナ対策を後押ししているという意味ではスウェーデンと全く同じだ。そして、皮肉にもその後に感染が急速に拡大するという意味でも同じだった。

もちろん、国民が自主的にコロナ対策を行うとは全く信じず、すぐにロックダウンを行うような国もあった。そこには、正しいかったか間違っていたかという結果以前に、それぞれの人間観が存在する。

さて、ここで歴史を通して語り継がれてきた人間観の対立について見てみよう。

ホッブズなのかルソーなのか

共に社会契約論的な学説を唱えたにも関わらず、人間の本性に対しては対立する考えを持っていた二人の哲学者のどちらの立場がより正しいのか、人々は歴史を通して議論してきた。

イギリスの哲学者トマス・ホッブズは、人間の自然な状態は闘争状態だと説いた。自己保存という本能が人間に備わっている以上、有限の資源を求めて人は闘わざるを得ないと。「万人の万人に対する闘争」と呼ばれるものだ。

フランスの哲学者ジャン=ジャック・ルソーは、人間の自然な状態は、他者を害するというようなことはなく、牧歌的に森の中を彷徨うような自由と平和の性質を持っていたとした。

どちらも、現実に即した具体論としては、国という強大な権力を中心として社会機構を成り立たせるしかないという意味では同じ意見だった。しかしそれなら、国や社会というコミュニティから断絶した人たちはホッブズ的な闘争状態に陥ったのだろうか、あるいはルソー的な平和的状態に陥ったのだろうか。

それを調べたのは、ニコラス・クリスタキス。イェール大学の研究者だ。

異なる結末を迎えた二つの物語

ニコラスは偶然作られた無政府状態のコミュニティの中で、人がどういう行動に出るのかを研究していた。そして、その過程で彼は非常に興味深い自然実験を見つけてしまった。(2)

1864年、2隻の船が、ニュージーランドのオークランド島の両端で難破するという事件が起きた。難破した乗組員のコミュニティというのは、無政府状態の人間がどのように関係性を結び、どう行動するのかを知るうえで絶好の手がかりとなる。

果たして難破コミュニティはホッブズとルソーのどちらの世界観を描くことになったのだろうか。

その2隻の乗組員は、同じ島で同じ時期に難破して奮闘していたが、なんとお互いの存在に気づかなかったのだ。

この2つの物語はどのように展開したのだろうか。

1964年5月11日、インヴァーコールド号はオークランド島北西部の荒れた入り江で難破し、20分ほどで大破した。そして、泳ぐことを余儀なくされた乗員25名のうち、19名がなんとか岸にたどり着いた。

彼らは4日ほどの間崖の下にとどまってから、衰弱していた1人を見殺しにし、頂上によじ登った。彼らの中には「自分の身は自分で守る」という雰囲気があったという。

その後一年にわたり、男たちは分裂と再集結を繰り返し、衰弱や怪我のために先に進めなくなったメンバーは置き去りにされ、時には食べられることもあった。

1865年5月20日、最終的にポルトガルの船によって救助されたのは、ジョージ・ダルガーノ船長を含むわずか3人。1年の間に生存者は激減していた。

この難破コミュニティが、ホッブズ的な闘争状態に置かれたと推測するのは難しくない。それを一番雄弁に語っていたのはダルガーノ船長のその後の容体だった。

彼は帰国後PTSDを発症し、難破における自分の役割を思い出すと神経症発作を必ず起こすという危険極まりない健康状態に追い込まれていた。

それでは時を同じくして難破したもう1隻の船はどうなったのだろうか。

1864年1月3日、インヴァーコールド号の事故の4ヶ月前に、グラフトン号は同じ島の反対側で難破した。この船の乗員は5名だったが、それぞれ出身国が異なっていた。

彼らは当初から団結することに重きを置き、食料を平等に分け、お互いを対等に扱った。難破の時点で一人は重病にかかっていたが、船が沈没しても船員は彼を見捨てずにロープを使って岸まで上げるという利他的な行動に出た。

崖の下に衰弱した船員を放置したインヴァーコールド号とはまさに対照的な出発だった。

その後、民主的なプロセスで船長のマズグレイヴがリーダーに選ばれたが、彼は権力を振りかざすことなく全員の協力関係を重要視した。それは、マズグレイヴが病気にかかった時に、他の船員が彼のために祈りを捧げていたことからも明らかだった。

彼らは決して衰弱した船長を食べようとはしなかった。

1865年7月19日、修理した小型船に5人のうち3人が救助を呼ぶために先に乗り、5日後にはニュージーランドのスチュワート島に到着した。そして、船長をはじめとする船員は、残りの2人を迎えに行くためにすぐさま引き返した。

25人中3人しか生き残らなかったインヴァーコールド号に対し、グラフトン号は2年にわたる長期の苦難にも関わらず、5人全員が生存したのだ。

最初に衰弱した船員に対する対応や、結果的に生き残った船員の割合も完全に対照的だったこの2つの難破事件だったが、船長のその後の変化においても、完全に違う物語を綴った。

PTSDに悩まされ、危険な健康状態に陥ったインヴァーコールド号のダルガーノ船長に対し、グラフトン号のマズグレイヴ船長は、事件の数ヶ月後、まだそこで難破した人がいるかもしれないとして、またしても島に戻り、次のように述べた。

「自分自身が苦しむとしても、似たような状況にある他の人たちを救うためなら、極地にでも喜んで向かったことでしょう」

真逆の道を辿ったこの事件を見る限り、ホッブズなのかルソーなのかという問いは、シンプルな答えが出るものではなさそうだ。

協力の条件

人間が平和的、協力的になるのか、それとも暴力的、闘争的になるのかという問題に対して、リーダーシップの重要性をオークランド島における難破の事例は教えてくれる。

しかし、個人の重要性だけでどうにかなるほどこの問題はシンプルではない。

件の研究者ニコラスは、歴史の中で発見した自然実験だけではなく、ネットワーク上で擬似的なミニ社会を築き上げ、様々な実験を通して人々の振る舞いを観察している。

1つ紹介しよう。

彼は1462人の被験者を集め、80の集団に無作為に割り振った。そしてネットワーク上のゲームで使える少額の現金を渡した。ちなみにこれは現実世界の現金とも交換可能なものだ。

各集団には意図的に格差が作られ、富が平等に分配された集団もあれば、やや不平等、大変不平等な集団もある。

この実験では、オンラインゲームのようなミニ社会で、実際の人間が集団としてどれだけの富を生み出せるか、どこまで協力し合い、友情を結べるかを観察した。

普通に考えると、不平等が大きいほど非協力的になると思いきやそうでもなかった。不平等そのものは協力関係とあまり関係がなかったのだ。

真の脅威は、「富の可視化」にあった。そのミニ社会では、他人がいくら持っているかが見えると、そうでないケースに比べて半分程度しか被験者は他人に協力しなかった。

つまり富の可視化をするだけで、人間の協力関係は簡単に崩れる。

先ほど見たように、人間が平和的、協力的であるためには、個人のリーダーシップが大事なのはもちろん、それとは全く違う観点で「環境」があまりにも重要だということになる。

富の可視化というたった1つのフィルターをONにするだけで、協力関係は破壊されるというのだから。

認知的不協和

さて、少し違う観点に注目してみよう。

先ほどの難破事例のうちあなたはどちらの方がより起こりやすいと感じるだろうか。おそらくそれはあなたの人間観に左右される。

そして、あなたが持つようになった人間観はこれまでの周りの環境に大きく左右された結果として形成されたものであるはずだ。

これまで見た事例のように、人間は平和的で友好的な側面も、暴力的で闘争的な側面も有しており、シンプルに白黒つけることは簡単ではない。

ただし、そのどちらを強く支持したいかは、その人自身が生きてきた環境の中で培われた「思い」や「願い」あるいは「祈り」のようなものだと思うのだ。

つまり、ホッブズなのかルソーなのかではなく、なぜホッブズを支持したい人とルソーを支持したい人がいるのかについて考えたい。

そのヒントになるのは、認知的不協和と呼ばれる現象だ。

人間とは、自分の今までの行動や経験を合理化するために、解釈を変化させる生き物だという「認知的不協和」の理論を提唱したのはアメリカの心理学者、レオン・スティンガー。彼の発見は心理学の歴史を大きく動かすことになる。

例えばダイエットした方が良いという思いがあるにも関わらず、プリンアラモードを食べてしまった。そこで、今日は大事な仕事のために糖分の摂取がどうしても必要だったから仕方がないと自分を納得させた。

爪を噛む癖をやめたいと思っていたが、ついまた爪を噛んでしまった。そこで、爪の主成分がタンパク質であることから、自分は爪を噛んでいたのではなくタンパク質を摂取していたんだと思い込んだ。

こういう認知と行動に矛盾が生じている不協和な状態を解消するために、人間は認知の方を修正することで不協和を解消する。行動は事実であり修正が効かないからだ。

この理論の面白いのは、プリンアラモードや爪がどうこうという日常レベルの話だけではなく、個人を決定づける重要な思想や価値観までも、認知的不協和によって大きく変化することだ。

例えば、朝鮮戦争時の中国軍は、捕虜になったアメリカ人兵士たちを、この認知的不協和を用いて共産主義に洗脳することに成功しているので、その驚くべき手法を『影響力の武器』より引用する。(3)

たとえば、捕虜たちはしばしば、一見取るに足りないような反米的、あるいは共産主義的な意見(「アメリカ合衆国は完全ではない」「共産主義国では失業問題は存在しない」)を述べるように求められました。しかし、ひとたびこうしたもった小さな要求に従ってしまうと、次にはそれと関連した、しかしと本質的な要求にも応じなければならない羽目に陥ります。

中国人の尋問者相手にアメリカ合衆国は完全ではないと認めると、どう点でそう思うのかを指摘するよう求められます。それを説明すると、次は「アメリカの問題点」リストを作成し、そこにサインするように求められます。

次は、捕虜仲間との討論の場で、そのリストを読みあげるように言われます。「いいじゃないか。だってこれは、君が思っていることなんだろう?」と。さらにその後、自分の書いたリストを元にして、それらの問題点をもっと詳しく論じた作文を書くように求められるのです。

中国人はその人物の名前と作文を、彼がいる捕虜収容所だけでなく、北朝鮮にあるほかの捕虜収容所にも、さらに南朝鮮に駐屯しているアメリカ軍にも送られている反米ラジオ放送のなかで紹介します。突然、彼は自分が利敵行為を行う「協力者」になってしまったと気がつきます。作文を書いたときに、脅迫も強制もなかったのはわかっているので、多くの場合、そうした状況に陥った人は、実際に行った行動や「協力者」という新しいレッテルと一貫するように自己イメージを変えてしまい、しばしば、もっと協力的な行動をとるようになりさえするのです。

これは極めて巧妙な認知的不協和を用いた洗脳手法だ。

元々アメリカの兵士は、当然ながら中国共産党は敵かつ悪であり、アメリカが正義だと認識している。

しかし、少しでも中国共産党が素晴らしいとか、アメリカにも欠点があるということを認めてしまうと、元々の自分の認知と行動に不協和が生じ始める。

それが仲間や自分の国にも伝わるようになると、いよいよ自分の中国共産党に対する賞賛や、自国に対する批判という行動がもはや揺るぎない現実になり、認知を修正せざるを得なくなる。結果、中国共産主義は素晴らしいという解釈をすることでしか自分の不協和を解消できなくなってくるというわけだ。

中国共産党を讃え、アメリカの問題を認めたという事実があるにも関わらず、中国共産党が悪でアメリカが正義という認識を持ち続けることはできない。

このやり方がすごいのは、自主的に行動を取らせるよう仕向けることで、例えば「中国共産党を賞賛しなければ殺す」とか「反米的な言動に対し多額の報酬を与える」という方法を取った場合には認知的不協和は機能しない。

なぜなら、その場合には思想と行動に矛盾が生じないからだ。中国共産党は悪でアメリカが正義だと思っていても、脅されて命の危機ならば仕方なく反対のことを言う。思考と行動の間はしっかりと辻褄があっており、そこに不協和は存在しない。

故に、取るに足らない言動を脅迫や大きな報酬なしにやらせてしまうところからきっかけを作るというこの手法の恐ろしさを感じざるを得ない。

実際に米軍当局は、朝鮮戦争で捕虜になった米兵の多くが共産主義に洗脳されるという現象に戸惑い、のちに洗脳に関する研究を行なっている。

一方、同じ捕虜でありながらも、認知的不協和が違った形で作用したのが第二次大戦で米軍に捕まった日本兵の捕虜だ。

実は、欧米と日本の兵士が捕虜になった場合の最大の違いは、日本の兵士が捕虜になったあとに敵国に協力したことだと『菊と刀』においてルース・ベネディクトは述べる。(4)

しかも、あっさり思想を変えた理由は、拷問があったわけでも、先ほど述べたようなアメリカを賞賛するよう仕向けるシステムがあったからでもない。

それならば日本兵は元々根性がなく弱気だったから簡単に寝返ったのだろうか?いや、実は真の理由は全くその逆だった。

実は、当時の欧米の軍隊において、最善を尽くしても勝ち目がなくなった場合に降伏するのは必要な手段だと見なされていた。そしてその基準は、軍隊の戦死者が4分の1から3分の1に達することで、そうなると必ず降伏した。

また、例え降伏したとしても兵士の名誉は損なわれず、立派に戦ったと見なされた。捕虜になった兵士は国際条約に従って家族に安否を知らせようとしたという。

それに対し、日本軍は「降伏無用」という凄まじい方針をとっていた。兵士の名誉は死ぬまで戦うかどうかという一点にかかっており、そのためなら絶望的な状態でも自決を選択することが美徳だった。

つまり、捕虜になるということは二度と日本で顔を上げられない「」であり、もはや日本で生きていくことはできないほどの許されない行為だった。

実際に、北ビルマ戦線では、日本軍の兵士の捕虜と戦死者の比率は1:120という驚異的なものだった。先に述べたように、欧米ではその割合が、2:1〜3:1におさまることを思うと、文字通り「降伏無用」だった。

さて、ここまでくると謎が解ける。

日本兵が捕虜になってから、あっさり敵国に協力した理由は簡単だ。

母国のために死ぬまで戦わなければならない。生き恥をさらしてはならない。という強い信念と、実際に捕虜になってしまったという行動が完全に不協和を起こしていたのだ。

しかも、捕虜になった後、もう殺してくれと頼んでも、鬼畜米英と罵っていた相手は自分を殺そうとも拷問しようともしなかった。国際条約にのっとって捕虜を扱うだけだった。

その現実の中で、捕虜は「母国のために死ぬまで戦い、捕虜にはならない」という信念を違う信念で上書き保存するしかなかった。

結果として、殺してくれないのであれば模範的な捕虜になると言って、日本軍の戦略や事情を細かく明らかにする捕虜まで現れ、それを頼りに戦略を立てる捕虜収容所まで登場した。

こういった模範的捕虜を超えた信念の完全な変更は、アメリカ人にとって予想だにしない出来事だったようだ。何しろ日本人ほど頑固な国粋主義者はいないと考えていたのだから。

しかし、中国で捕虜になったアメリカ兵も、アメリカで捕虜になった日本兵も、信念を変えたのは等しく認知的不協和によるものだった。

なぜ性善説や性悪説に向かうのか

この、自分の行動と思想に一貫性を持たせようとする作用は興味深いが、私は同様に、人間は自分の「実感」と「思想」に一貫性を持たせようとする生き物だとも思っている。

人を信頼しては裏切られ続けてきた人が、人間は信頼に値するとは考えないだろうし、両親の夫婦仲がとても良かった人が、夫婦というのは基本的にうまくいかないものだとは考えないだろう。

そういう意味で、人間の良い部分ばかりを実感してきた人が性善説的なのは極めて普通のことだし、人間の悪い部分ばかりを実感してきた人が性悪説寄りなのも自然なことだ。

例えばニーチェ。

人生にわかりやすい天国のような救いはなく、神はもはや死んだ。人生はたとえそのほとんどが苦難に満ちたものであっても、少しの幸福と共にこれからも繰り返される。そういう吐き気をもたらす世界を肯定することが大切だという彼の思想は、その人生を紐解くと理解できる。

彼は5歳の頃に牧師であった父が事故死、翌年には弟が病死と早くも不幸に襲われた。(無神論者にありがちだが、若い頃の彼は熱心な信仰を持っていた。)その後、若くして才能を認められ、バーゼル大学の教授職につくも、最初に出版した本が強烈な悪評を呼び学科内で孤立。以後も、様々な決別を経験するだけでなく、30代にして病気にも苦しめられる。

その後、求婚した女性には断られた挙句、彼女がニーチェの友人と同棲を始めるという悲劇に遭い、しかもその黒幕は実の妹だったことが発覚。自殺願望に取り憑かれながら執筆したのが、かの有名な『ツァラトゥストラはこう言った』だった。その後には発狂して精神病院に入院し、晩年は完全に狂人と化した。

こういった人生を見ると、彼がやや陰のある思想に至ったのは納得のいくことではないだろうか。

逆に、欲求階層説などで有名な心理学者のアブラハム・マズローは人間の可能性や潜在能力などの光の部分にスポットライトを当て続けた人物だ。

同じユダヤ系学者のジークムント・フロイトが人間の無意識というものを倫理や道徳と相反する邪悪な存在だと定義したのに対し、マズローは無意識には健全ではない部分もあるものの、有意義なものもあるとして、良い部分にばかり焦点を当てた。

彼の言葉を引用しよう。(5)

もしも、人間の精神的成長、価値的成長、道徳的発達の可能性を知ろうとすれば、最も道徳的、倫理的な聖人を学べばよいと私はいいたい。

彼が人生で得てきた実感もポジティブなものが多かったのだろう。確かに私の知る限り、彼の人生を調べても、闇と思えるような箇所はとても少ない。

誰が見ても恵まれている人が、ポジティブで前向きな性格だとしても何の不思議もない。

また、誰が見ても悲惨でかわいそうな人が、卑屈な性格になっていたとしても、何も新鮮な衝撃はない。

しかし、しかしだ。

誰が見ても悲惨な生活をしていて、かわいそうに見える人、ある意味では自分の人生や周囲の環境を呪っていてもおかしくない人に素晴らしい人間性が宿っていた場合はどうだろうか。

人間にはどうしても良い部分も醜い部分もあるが、私が個人的に、性善説的な価値観に美しさを感じるのはそういう時だ。

罪と罰から見る人間の本性

ロシアの文豪ドストエフスキーの『罪と罰』は、人間の本性を理解する上で非常に興味深い作品だ。(6)

貧困で学費が払えず大学を辞めた青年ラスコーリニコフは、「選ばれた人物は、世界の発展のために、一般的な道徳を踏み外す権利を持つ」という理論を独善的に信じていた。

自分こそが選ばれた人物だと思い込んでいた彼は、強欲な高利貸しの老婆を殺害し、奪ったお金で社会のために善行をしようと企てる。彼は思想が独善的なだけで、これまで善行を重ねてきた人間だった。

しかし、殺害の現場に居合わせた高利貸しの老婆の妹まで殺す羽目になり、以降は良心の呵責に苦しむ羽目になる。それでも、彼は自分の理論を曲げず、殺人を正当化しながら逃げ延びるが、そこで一人の女性に出会ってしまう。

彼女の名はソーニャ。父親は重度のアルコール中毒で、お金を全部お酒に使ってしまう人物。彼は作中で酩酊しているところを馬車に踏まれ、大怪我を負って絶命する。

母親は肺病を患っており、作中において、最後は狂った言動を取るようになり、廃人のように死んでいく。

そんな大変な両親を持つ彼女には弟妹たちがおり、家族のために自分が娼婦になりながら生計を立てるという徹底的な自己犠牲の生活を送っていた。

しかも、彼女は敬虔なクリスチャンであり、家族のために犠牲になっていることに対し、文句を言うことも自己正当化することもなく、自分自身が罪人であることを恥じていた。

誰がどう見ても自分よりも悲惨な境遇にいるソーニャが、自分の罪を認め、家族のために自らを捧げるような生き方をしていることに、元々良心の呵責を感じていたラスコーリニコフは心を打たれ、彼女の勧めもあって、最後には自首していくのだった。

人間の良心に凄まじいほどに強く訴えてくるこの作品を描いたドストエフスキーはどのような生き方をしてきただろうかと調べると、案の定とんでもない経歴の持ち主だ。

作家としてのデビュー作が絶賛されたかと思いきや、社会主義活動により死刑宣告を受けた彼は、なんとか恩赦を受けてシベリア流刑で服役することになり、その期間で病気を患いながらも社会主義者からキリスト教的人道主義者へ思想の変貌を遂げた。

ギャンブル依存症にもなりながら、まさに栄光から凋落まで実に様々な景色を見てきた彼が、刑期を終えたのちに光を当てたのは、この作品が物語るように、人間の良心だった。

ホームレスが教えてくれたこと

私の昔話も加えよう。

大学3年生の4月末。ゴールデンウィークに入った世間は賑やかで、私は移動のため、名古屋駅にいた。

券売機で購入しようとしていると、ホームレスらしき人に話しかけられた。お金を恵んでくれないかと。

わざわざ赤の他人にお金を求める状況とはどれだけ追い込まれているのだろうか。私がそんなことをしなければならない時は死ぬほど苦しい時だ。そう思うといたたまれなくなり、いくらだったか渡した。

すると、そのホームレスは驚いたような表情を浮かべて、せめてこれだけでも…とタバコを私に1本くれようとした。極めて反射的な行動だった。 見ず知らずの人間にお金をもらわないと生きていけないほど貧困なはずなのに、彼は何かお返しがしたくて、私にすぐにタバコを与えようとしたのだ。

私がお金を渡した時に彼は驚きと喜びが混じった表情をしていたが、タバコを渡そうとされた時の私も負けないくらい驚いていたと思う。私は渡したお金よりもはるかに満たされた。実際、その衝撃のせいでいくら渡したかは全く覚えていない。

実は私は、タバコのせいで小さい頃に喘息が発症し、今に至るまでタバコを吸ったこともないし、タバコの煙や匂いはどうしても嫌いな人間だ。 そんな私が唯一タバコを尊く思ったのは、あの時だけだった。

今になって思うと、そのおじさんは、現代社会で生きるのには優しすぎたからホームレスになったのかもしれないとさえ思う。

また、アメリカに住んでいた頃にも忘れられないホームレスとのエピソードがる。

ある日、イリノイ州の田舎町で昼食を食べ中心街を歩いていると、椅子に座っているホームレスらしき人を目撃した。中年を過ぎた年齢と思われるそのおじさんは、ダンボールを掲げてベンチに座っていた。助けを求める内容の書いたダンボールだ。

その人自身の将来や家族のことを思うと苦しくなり、少しばかりお金を手渡したのだが、すぐさまそのおじさんが優しい感情のこもった声でこう言った。


“God bless you.”


私は驚いた。こんな田舎町で寒い風に吹かれながら、ダンボールに書いた文字で助けを請うような惨めな状態なのに、神を信じているのか…。例え定型文だとしても、本当に神を信じているのであれば、神を呪っていてもおかしくないような状況の人が。

ニーチェやマルクスが無神論的な思想を持っているのは、恋人や友人や家族にまでひどい裏切りを受けたとか、愛する子供達が若くして悉く死んでいったという彼らの生涯を見ると、納得できるのだ。

しかし、寒空の下でダンボールを頼りにしていたそのおじさんは神や運命を呪わないばかりか、私の幸福を願ってくれた。

私がそのおじさんの立場なら、私がそうなる自信はない。その汚いおじさんは私よりも綺麗だったのかもしれない。

人間観のアップグレード

最も貧しく悲惨に見える人たちが放つ輝きは、私を大いに魅了する。人間には悪側面もたくさんあるが、その善性は困難な状況でも消えない。人は信じるに値するし、愛するに値すると。

20世紀を振り返ってみよう。

かのジークムント・フロイトは、道徳や倫理は私たちのうちに潜んでいる性欲が暴れ出さないよう押さえつけるものだと主張し、世界的な生物学者のリチャード・ドーキンスは、生物の利他的な自己犠牲は最終的に自分の種の利己的な目的のための行動が現象としてそう見えるに過ぎないと訴えた。

1983年にノーベル文学賞を受賞したイギリスの小説家、ウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』は、純粋な少年達が妬みや怒りに取り憑かれ、殺し合うという人間性の闇を精緻に表現した。(6)

もちろん、その間にも性善説的な研究や芸術も現れてはいたが、時代全体としては、性悪説的な風が強く吹いていた。

しかしここ数年では、当ブログでも何回か触れたティール組織のような性善説をベースにした組織論や、この記事の最初に紹介したニコラス・クリスタキスのように「人間の本性的な善性が発揮された社会のみが生き残ってきた」とする新たな生物学的な知見が実に斬新で輝きを放っている。

昨年2020年には、ヨーロッパにおける次の世代の知性と評されるルトガー・ブレグマンの『Humankind: A Hopeful History』が大いに話題になった。(7)

彼に言わせれば、スタンフォード監獄実験やミルグラムの電気ショックの実験のような、暗い人間観を形作ってきた過去の社会実験は間違いだったという。彼は最近の知見をもって、過去の研究を鮮やかにひっくり返していく。

他人を親切な存在だと信じれば全て変わっていくと強く主張する若手歴史家のブレグマンは、今後目が離せない存在だ。(残念ながら上記の本はまだ邦訳されていない)

歴史に鑑みると、誰も疑わなかった常識も、完璧な科学的根拠があるように思えた社会実験も、時代とともにひっくり返ってきた。この傾向は科学が急速な発展を遂げた近年になっても変わっていない。

これからの時代には人間観がどうアップグレードされていくのか。人間観が変わると、組織論から政治哲学、経済学や社会システムまで全てが変わる。注目せずにはいられない。

ブループリント:「よい未来」を築くための進化論と人類史(上) (NewsPicksパブリッシング) Kindle版

影響力の武器[第三版]: なぜ、人は動かされるのか (日本語) 単行本 – 2014/7/10

菊と刀 (光文社古典新訳文庫) Kindle版

人間性の最高価値 (日本語) 単行本 – 1973/8/20

罪と罰 1 (光文社古典新訳文庫) Kindle版

Humankind: A Hopeful History (英語) ペーパーバック – 2020/5/19

参考・引用
(1)https://theconversation.com/sweden-and-japan-are-paying-the-price-for-covid-exceptionalism-151974

(2)ニコラス・クリスタキス『ブループリント:「よい未来」を築くための進化論と人類史(上)』NewsPicksパブリッシング、2020年

(3)ロバート・B・チャルディーニ『影響力の武器[第三版]:なぜ、人は動かされるのか』誠信書房、2014年

(4)ルース・ベネディクト『菊と刀』光文社、2008年

(5)アブラハム・マズロー『人間性の最高価値』誠信書房、1973年

(6)フョードル・ドストエフスキー『罪と罰』光文社、2008年

(7)Rutger Bregman『Humankind: A Hopeful History』Little, Brown and Company、2020年

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ABOUTこの記事をかいた人

IQ155オーバーだが、自信があるのはEQ(心の知能指数)の方で、繊細な感受性の持ち主。 大学時代に週末はあらゆる大学生と人生を語り合うことに費やした結果、人を見下していた尖り切った人生から、人の感情を共感し理解する相談役の人生へとコペルニクス的転回を果たす。 これからの時代は感情の時代になると確信しており、感情のあり方が幸せに直結するとの考えから、複雑な感情の流れを論理的に整理することに挑戦している。 モットーは Make the invisible visible 詳しい自己紹介はこちら