「正しさ」をどう用いるか

最近はコロナの影響もあり、世界中の感情が荒んでいるように感じる。

感情が荒んでくると、攻撃目的の怒りや無責任な批判、責任転嫁や自己正当化が横行し、人は幸せから遠ざかる。

その中でも、ネガティブな感情をぶつける際によく用いられるのが「正しさ」という概念だ。人は、何かに対する負の感情を「ありえない」「間違ってる」「おかしい」などの言葉に見られるように、自分が正しくて相手は間違っているという「正しさ」という尺度に変換して攻撃する。

かくして、人は宗教戦争から夫婦喧嘩に至るまで「正しさ」という武器に頼り続けてきた。武器という表現を用いたが、正しさとは、まさに目に見えないだけで鋭利な刃物のようなものだと思う。

刃物というのは取り扱いが難しい。

包丁やカッターがない生活は極めて不便だし、メスがなければ救えない命がたくさんある。刃物が人類の文明に大きく貢献してきたことは間違いないが、同時に人を殺す道具として刃物ほど人類史を赤く塗り続けてきた物も少ない。

刃物は人を生かすものであり殺すものであった。

同様に、正しさについて考えてみると、科学をはじめとして正しさという概念が人類史に貢献した実績は凄まじいが、逆に、戦争やいじめ、差別の根拠としても正しさは常に用いられてきた。

正しさも、人を生かしも殺しもする概念なのではないかと思う。

であるならば、我々は正しさとどう付き合うべきなのか。刃物をどう扱うかには誰でも多少なりとも意識があるが、正しさとどう付き合うべきかについて考えている人をあまり見たことがない。

しかし、我々が日常的に包丁を扱うくらい自然に正しさを用いている。というわけで、今回は正しさとの付き合い方について考えてみたい。

人に向ける正しさ

刃物を人に向けるのが危険極まりない行為だというのは周知の事実だが、同様に正しさを人に向けることも危険性が伴う行動だと思う。

誰かから刃物を向けられたと想像してみてほしい。一瞬で緊張感が高まり、こちらから相手に対する攻撃の手段や、逃走などの防御方法を真剣に考える。刺されるわけにはいかない。

それと同じように、「あなたは間違っている」「あなたはおかしい」と誰かから言われた場面を想像してほしい。もちろん状況にもよるが、相手が冗談に見えないならば、あなたの方が間違っているという攻撃(反論)や間違ったのは仕方ないとする防御(弁明)などを真剣に考えるだろう。

まともに受け入れることは、物理的にでこそないが、精神的には刺されることである。正しさを相手にストレートにぶつけるとはそういうことだと思う。

当然ながら、お互いに攻撃や防御のスイッチが入った場合には、そのあとは感情的な展開が予想される。そうなると、「正しいか正しくないか」はどうでも良くなり、相手をいかに攻撃するか、叩きのめすか、など完全に刺し合いになる。

そしてその後のことも考えねばならない。感情的になって刺しあった場合は、片方あるいは双方の謝罪などで丸く収まることもあるにはある。

しかし、日本ではそのことにどちらも触れずに時間と共に無かったことにされることも多い。そうなると、表面的には解決したように見えて、傷が残りやすい。

傷は、恨みや憎しみに変換され、そうした気持ちは復讐を生む。傷つきにくい人にはピンとこないかもしれないが、こういった恨みや憎しみは人を殺すことさえ容易にしてしまう。

そこまでいかなくとも、あなたの言動で刺されて傷ついたと相手が思ってしまえば、その相手はあなたのことをもはや信頼しないどころか、悪評を広めるだろう。

結局、正しさを直接相手にぶつけるのはとてもリスクが高い行為だ。最悪の場合誰も幸せにならない。

コトやモノに向ける正しさ

正しさを伝える際に、人そのものではなくて、コトやモノに変換するというのは有効な手段だ。

「あなたのその行動は間違っている」「あなたのその意見はおかしいと思う」といった表現だ。

ただし、行動や意見を否定し場合でも、その人自身を否定しているという風に捉えられることもあるので、「その人自身」と「行動・意見」を分けた表現を使えるとよりスマートになる。

「あなたの気持ちはよくわかるけど、その行動は違うと思うよ」「意見を出してくれたのはありがたいけど、ちょっと違うと思うな」

こういう丁寧な表現を日常的に使っていくと、正しさを用いる目的が相手を攻撃するためなのか、ただ論理的に反対意見を言いたいだけなのかが、自分の感情を読み取りながら整理されるようになってくる。

結果、相手を刺すような言動を避け、相手との信頼を築きやすくなるはずだ。

正しさを教えることは重要だから、厳しくてもストレートに突きつけなければいけないという意見の人もいるだろう。

しかし、私は、相手が傷付かずに受け入れられるように伝えることが「正しい」ことだと考えている。

裁判を受けてきた人たち

残念ながら、人を日常的に攻撃し、刺す人たちは自覚症状に乏しいあるいは攻撃することを見事なまでに自己正当化していることが多い。しかし、攻撃する側がどう思っていようとも、傷ついた側はその記憶がトラウマになることがある。

カウンセリングをやっていると、教育される過程で日常的に刺されてきた人に出会う。「お前はだからダメなんだ」と親や先生から存在を否定され、それが心の奥底に引っかかっている。

ぽろぽろ涙を流しながら話してくれる人もいる。そんな時は一緒に涙しながら話を聞く。酷く突き刺されてきた人生がどんなに困難だっただろうかと思いを馳せながら。

刀ではなくメスとしての刃物

とは言え、自分の感情をコントロールして、相手を傷つけないようにするのは時に難しい。私自身もこれまでに何度も失敗してきたし、これからも何度も失敗するに違いない。

自分にとっての身近な挑戦はパートナーに対してだ。女性は男性に比べてはるかに傷が残りやすいので、女性から見てそういった傷を相手からつけられなかったと思ってもらえたら私の勝利だ。これは難しい部分もあるが、とても挑戦しがいのある愛情の表現方法だと思う。

正しさという概念は大切だ。しかし、願わくば、人を殺す刀としてではなく、人の命を生かすメスとして用いられますように。

正しいことを正しいと言うことが必ずしも正しいわけじゃないという話

2019年10月26日

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ABOUTこの記事をかいた人

IQ155オーバーだが、自信があるのはEQ(心の知能指数)の方で、繊細な感受性の持ち主。 大学時代に週末はあらゆる大学生と人生を語り合うことに費やした結果、人を見下していた尖り切った人生から、人の感情を共感し理解する相談役の人生へとコペルニクス的転回を果たす。 これからの時代は感情の時代になると確信しており、感情のあり方が幸せに直結するとの考えから、複雑な感情の流れを論理的に整理することに挑戦している。 モットーは Make the invisible visible 詳しい自己紹介はこちら