「平等」という言葉が苦手

チョコレート1粒を7等分に分けていた光景をいまだに忘れられない。

数年前にある人の家に行った時のことだ。その家庭では平等が絶対らしく、チョコレート1粒を包丁で7つに切っていた。

未知の文化に遭遇したような気分だった。無理矢理分けずに、誰か食べたい人に譲ったらいいのにという思いが拭えなかったが、あいにく私はよそ者。そわそわしながらもそこには触れずに耐え忍んだ。

ん?小さい子供が多い大家族なら仕方ないのでは?

そう思われそうだが、小さい子は誰もいない。唯一の未成年は高校生の女の子だった。

その出来事から数年が経った今、平等という言葉の素晴らしさだけでなく、恐ろしさを私は感じている。

平等と公平の議論

平等という言葉は基本的にポジティブなニュアンスを伴って使用される。

男女平等、人類みな平等と言えば、聞こえはいい。

しかし、そんな平等のネガティブな側面にフォーカスを当てた議論に「平等と公平の違い」という内容がある。

「平等」がそれぞれの持つ要素に関係なく一様に等しく適応させるシステムだとすれば、「公平」はそれぞれの持つ要素に応じて必要なサポートが与えられるシステムだと言える。

例えば、ボクシングなどの格闘技には何段階もの階級が存在し、同じ体重の範囲の相手としか戦うことはできない。

これは、「公平」という観点を重視したやり方で、「平等」を重視した場合は、体重に関係なく全員が全員と同じように戦えるべきだという主張になる。

もちろん格闘技における体重差というのは、あまりにも大きな意味を持つため、平等であるべきと考える人は基本的にいない。

こういう平等の難しさがよく指摘されるのが教育の分野だ。子供にはそれぞれ独特の個性があり、子供たちに対して完全に平等に接するのは没個性を促進するという意見に対しては、私も概ね同意見だ。

例えば、アメリカをはじめとした先進国が、当たり前のように導入している教育システムに「飛び級」がある。年齢が低くても、その子の才能に応じてレベルの高い教育が受けられるこのシステムは「平等」「公平」どちらを重視したものなのだろうか?

もちろん「公平」ということになる。能力が高い子にとって、レベルの低い授業を受け続けるのは才能を伸ばす障害になり、フェアではない。苦痛さえ感じる子どももいるだろう。

つまり、日本は「平等」に寄った教育をしているということになる。

飛び級がないという観点だけでなくとも、日本の教育が公平よりも平等を重視しているというのは大人なら誰でも感じたことがあるのではないだろうか。

どうやら「平等」というのは万能じゃないらしい。

一例として「平等」の負の側面に触れたが、今回考えたいのは全く違う観点だ。システム的な話ではなく、人間の感情を中心に見た場合はどうだろうか。

責任のバイアス

先日ツイッターで、「責任のバイアス」と呼ばれる現象について呟いた。

※この研究に関しては、以下の書籍で触れられてるので興味ある方はどうぞ。良書です。(1)

GIVE & TAKE「与える人」こそ成功する時代 三笠書房 電子書籍 Kindle版

この「責任のバイアス」の観点で考えると、平等の面白い側面が見えてくる。

それは、自分以外の誰かに対する扱いに対して不平等と感じるよりも、自分自身に対する扱いを不平等という風に感じやすいのではないかということだ。

つまり、万人が平等であるべきということを意識すればするほどに、他者ではなく自分が不平等な扱いを受けていると感じやすい人格になってしまうのではないかと思うのだ。

正直に告白しよう。

やたら平等にこだわる人たちと接するのが難しいと私自身ずっと感じてきた。

理由はおそらくその辺りにある。自分が周りから不平等な扱いを受けているとばかり主張されることで私が精神的に苦しくなってしまっていたのだ。

等価交換の世界

昨年話題になった名著『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』の中に、2種類のコミュニケーション方法が記されている。(2)

1つ目は純粋な「贈与」。信頼に基づいた家族の中での愛情や、親しい人間関係の中に見られるものだ。損得勘定や見返りを抜きにした無条件な愛情の形というニュアンス。

それに対してもう一方は、「交換の論理」。こちらは等価交換を前提とした形態で、例えばお金を払うことでその価値に見合った商品を手に入れるという、私も与えるからあなたも下さいといった感覚のものだ。

交換の論理は、市場経済においては強い意味を持っている。1円単位の厳密な価値交換制度は、誰にとっても納得がいきやすい便利なシステムだ。

そして、その市場経済に密接に結びついている労働というシチュエーションにおいて、我々はこの交換の論理を非常に重視しやすい。

その人材にどのくらいの給与を支払う価値があるのか。コスト削減のために何人の希望退職を募るのか。人間さえもお金と交換になるのが市場主義だ。

しかも、学生や定年後の人を除けば、ほとんどの人が働いている週5日のうち起きている時間の半分程度を仕事に費やしている。そうなると当然、人生における発想が交換の論理に侵食されていく。

この、人間さえも交換の論理で考える感覚が、プライベートな人間同士の関係にさえも適用されるようになる時、崩壊の序曲が奏でられる。

そう。自分の貢献を高く見積もる「責任のバイアス」だ。

スーパーで買い物をする時のように、もやし1パック15円、納豆3パック100円という厳密な交換価値を突き付けあって人間同士が交換されることはない。

カップルの片方が掃除をして、もう片方が料理をした時に、どっちが何カロリー消費したから多く手間と労力をかけたなどのわかりやすい交換基準はない。

人間関係も絶対的に等価交換で成り立たせようと思うと、双方が自分ばかり頑張っていると錯覚する責任のバイアスの海に沈んでいく。

平等という概念が必要とされることはもちろんあるとは言え、人間関係において完全に客観的な平等は中々難しいのだ。

7等分のチョコレートの正体

私が7等分のチョコレートに表現しがたい不思議な違和感を覚えたのは、家族という無条件の愛情が顔を出すプライベートな領域にまで、包丁で1粒のチョコレートを7等分しようとするくらい厳密な平等主義が支配していたことに対する、もの寂しさからだった。

私が見たかったのは、そのチョコレートを家族の誰かにあげようとする贈与的な関係だった。親から子でもいい、お姉ちゃんから妹にでもいい、一番食べたそうな人に損得勘定や平等といった概念を抜きにして与える姿が見たかったのだ。

自分が食べたい以上に大切な誰かが喜んで食べてくれる方が嬉しい。

エゴを超えた先に見えるそういう美しい景色が見たかった。

ただ、私はその当時その家庭をたまたま訪れたに過ぎず、その家庭の文化や事情についてはよく知らなかった。私が曲解し過ぎという可能性も当然ながら残っている。

それでも…。

責任のバイアスから解放された人たち

さて、闇ばかりではなく光に注目しよう。

上に載せたツイッターの研究をもう一度振り返ってみると、カップル双方合わせた貢献度が100%以下というケースが4分の1ほど存在するのだ。

100%を切るのは大きく分けて2つのケースだ。

1つは片方が自分の貢献度が70%と答え、もう片方は25%などと答えていた場合。つまり、どちらの目から見ても片方の人が関係維持のための努力をほとんど担っていると認識しているケース。

そしてもう1つは、お互いが「相手の方が関係維持に対する努力をしている」と認識しているケースだ。

さて、皆さんはあらゆるケースの中でどれがお好みだろうか。

自分の貢献度が合わせて100%を超えているカップル。(おそらくその中でもお互い自分が50%以上を主張するカップルはかなり雲行きが怪しそうだ)

合わせて100%には届かないが、片方に負担が集中しているとお互いが認識しているパラサイトカップル。

そしてお互い自分が50%以下だと主張するカップル。

私を含む多くの人が最後のカップルが一番幸せそうに見えるに違いない。どうしたらそうなるだろうか。

お互いが相手の貢献を大きく感じているということは、少なくともお互いが何らかの努力をしているが、自分がしてあげているという意識よりも相手に対する感謝の気持ちが上回っているということだろう。

そういう人格は平等という概念の中からは生まれにくいと思う。愛はどうしても客観的に見たときには犠牲が伴うことがある。ただ、主観的には犠牲と感じないのが愛の力だ。

平等の使い道

散々平等という概念をディスってきたような良心の呵責に襲われているので、最後に少し名誉挽回をしたい。

皆さんは「怒り」という感情に振り回されて失敗した経験はないだろうか?

私は数え切れないほどある。

アイオワ州立大学の心理学者、ブラッド・ブッシュマンは怒りを発散させることが怒りのコントロールに役立つのか検証するために実験を行なった。(3)

内容は以下のようなものだ。

被験者に妊娠中絶に賛成もしくは反対する文章を書いてもらう。その後で、自分とは違う意見を持つ人からその文章に対してとても厳しい評価を下される。

こんな酷い文章は読んだことがない」などの非常に攻撃的な批判だ。

怒った被験者は次の3つのグループに分けられた。

感情を思いっきり表に出す。気をまぎらわせる。コントロールする。

感情を出すグループは、自分の文章を酷評した相手を思い浮かべたり、写真を見たりしながら、気のすむまでサンドバックを殴った。

気をまぎらわせるグループは、サンドバックを殴るが、体を鍛えているイメージを持つよう強調され、エクササイズしている人の写真を見せられる。

感情をコントロールするグループは、二分間座ったままじっとしている。

その後、被験者に嫌な思いをさせた相手に対して最も攻撃的になるのはどのグループだろうか?答えは怒りの感情を表に出したグループだった。他のグループに比べ、完全に怒りのスイッチが切れない状態になっていた。

怒りは発散させると解消するという一般論に対して、それは全くの逆効果だとブッシュマンは示したのだった。

怒りとはこのように難しい感情だが、実は怒りには使い道がある。

別の研究によると、「他者に対して」怒りを感じていると復讐心が生じるが、「他者のために」怒りを感じていると、正義やより良いシステム作りの動機になる。

キング牧師は公民権運動において、白人を打倒することではなく、被害者を救うことに目を向けるよう訴えていたという。大切なのは、白人に攻撃することではなく、差別の被害者を解放するシステム作りなのだと。

まさに「他者に対する」怒りではなく、「他者のため」の怒りだ。人を罰したいのではない、助けたいという気持ちだ。

私はこのエピソードを知って、「平等」にも応用できるように感じた。

「自分のための」平等は、責任バイアスのように不満をただ増長させることにつながりかねないが、「誰かのための」平等は、不平等な扱いを受けている人を救うきっかけになるかもしれない。

そうしたらもっと美しい言葉になりそうだと思ってみたりする。

世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学 (NewsPicksパブリッシング) Kindle版

ORIGINALS 誰もが「人と違うこと」ができる時代 Kindle版

参考・引用
(1)アダム・グラント『GIVE &TAKE 「与える人」こそ成功する時代』三笠書房、2014年

(2)近内悠太『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』NewsPicks、2020年

(3)アダム・グラント『Originals 誰もが「人と違うこと」ができる時代』三笠書房、2016年

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IQ155オーバーだが、自信があるのはEQ(心の知能指数)の方で、繊細な感受性の持ち主。 大学時代に週末はあらゆる大学生と人生を語り合うことに費やした結果、人を見下していた尖り切った人生から、人の感情を共感し理解する相談役の人生へとコペルニクス的転回を果たす。 これからの時代は感情の時代になると確信しており、感情のあり方が幸せに直結するとの考えから、複雑な感情の流れを論理的に整理することに挑戦している。 モットーは Make the invisible visible 詳しい自己紹介はこちら