最近感じるのは、お金になるという軸と即効性がある(すぐに結果が出ない)という軸から外れた情報って出回らないしほとんど注目されないよなーということ。儲からない割に面倒で時間がかかる分野とでも言えばいいのか。でも、その中に大切なものって本当にないのだろうか考えてしまう。
お金という判断基準
人間が習慣的に餌をやっている鯉のいる池には、人間の気配を察して餌をやる前から鯉が集まり始める。これから何が起こるか何となく気づいているのだ。実際に餌をやり始めると、あの大きな体が激しくぶつかり合いながら自分の取り分を確保しようと必死になる。よく見る光景だ。
お金の匂いを嗅ぎ分けて、お金が落ちそうなところに一斉にビジネスを展開する人間も、実はそんなものなのかもしれない。深刻な環境破壊も、AIがもたらす破壊的な技術も、戦争さえも、金になるかならないかという観点抜きに現代人が解決策を考えるのは難しいように思う。私利私欲のない美しき賢人が全くいないとは言わないにしても…だ。
ワシントンポストやガーディアンなどの欧米のメディアを見ていると、精子バンクやそこから生まれた子供たちに関するリベラルな記事が当たり前のように出てきている。遺伝子に関する倫理的な是非というのは極めて難しい問題だ。しかし、そういった記事にも、ブロンドの髪に青い瞳、高身長高学歴のドナーの精子が高額であるといったビジネスの観点は入ってくる。倫理はビジネスに勝てるのだろうか。
イスラエルの歴史学者、ユヴァル・ノア・ハラリは著書『21 Lessons –21世紀の人類のための21の思考 』の中で、巨大企業Facebookの未来に対して鋭い見解を述べている。以下に引用する。
ザッカーバーグは、フェイブックはこれからも一生懸命に「みなさんに自分の経験を」他者と「シェアする力を提供するツールの改良を重ねていく」と述べた。とはいえ、人々が本当に必要としているのは、自分自身の経験と接触するツールかもしれない。人々は、「経験をシェアする」という名目で、自分に起こっていることを、他人にどう見えるかという観点から理解することを促される。何か胸の躍るようなことが起これば、フェイスブックのユーザーは本能的にスマートフォンを取り出し、写真を撮り、投稿し、「いいね!」という反応が返ってくるのを待つ。その間、彼らは自分自身がどう感じているのかには、ほとんど注意を払わない。(中略)今までのところ、フェイスブック自体のビジネスモデルは、たとえオフラインの活動に充てる時間とエネルギーが減ることになっても、より多くの時間をオンラインで費やすように人々を奨励する。フェイスブックは、本当に必要な時にだけインターネットに接続し、自分の身体的環境と自分自身の体や感覚にもっと注意を向けるように、人々を奨励する新しいモデルを採用できるだろうか?株主たちはこのモデルをどう思うだろうか?
誰かと食事に行っても、スマホが気になるが故に、提供される食事自体の味わいを堪能することや、向かいにいる相手の話に集中することが難しくなりつつある現代人を、その原因を作った企業は自分のビジネスモデルを捨ててまで救ってくれるだろうか。そこに確信が持てないのが資本主義社会だと痛感する。人類はドーパミンにどう立ち向かうのだろうか。
即効性というWeb時代の判断基準
ブログを書いていると「SEO対策」という観点に必ずぶつかる。SEO対策とは簡単に言うならば、いかに自分のサイトが検索エンジンの上位に表示されるかということだ。Googleをはじめとする検索エンジンは、当然ながらユーザーが求めている情報が上位にくるようにアルゴリズムを調整する。
それならば、ユーザーが求めているものとは何だろうか。私が思うに大きな比重を占めるのは即効性だ。困っていることに対してすぐにわかりやすく効く、そういう情報を求めている層が一番多いと思うのだ。「7年かけて確実に築ける幸せな家庭」という記事を世間が欲しがっているとは思えない。
そういう意味で、Webは半ばファーストフード化していると思う。Googleで上位に表示されるためには、高級フレンチではダメなのだ。ファーストフードやファミレスのようなコンテンツを多くの人は求める。
もちろん、ファーストフードこそがお祝いの時に口にしたい至高の食べ物だと思う人は少ないだろう。しかし、早さ、ある程度の美味しさ、便利さ、手軽さ、料金など、なんとも無難であり、結果として多くの人にヒットする。看板も分かりやすいが故に当然目立つ。
実際に検索上位のページを見ると、わかりやすくて人の気持ちを惹きつけやすいタイトルや目次が揃えてあり、レイアウトも見やすい。内容が深いわけではなくとも、シンプルなことが書いてある。
高級フレンチのコース料理のように、好きなものだけを食べられなかったり、オードブルを食べ終わらない限りスープが出てこなかったり、料理が運ばれてきて説明をされない限り、具体的な料理が何かわからない可能性があるようではどうやらダメらしい。味が良くても。
しかし考えてみて欲しい。現実というのはあまりにも複雑で、Webのあらゆる広告で謳われているように、わかりやすく効くものばかりであったら、世の中にここまで問題ばかりが存在することはない。
日本では学校教育の過程で、基本的に唯一の正解がある問題を解かせる。今年最後となったセンター試験はその前提で成り立ってきた。そういう教育を受けて育つ若者は、「あらゆる問題にはシンプルな解答が存在する」ことを疑う力に当然ながら欠けるだろう。
フランス版のセンター試験とも言えるバカロレアの昨年の哲学の問題は「時間から逃れることは可能か?」「道徳は最良の政策なのか?」「義務を認識することは自由を捨て去ることなのか?」といったものだった。もちろん記述式であり理系も受ける。とても唯一の解などなさそうだ。
現実的な問題もそんな性質のものばかりだ。例えば度々話題になる不倫問題について考えよう。ある男性が奥さんに内緒で不倫をしたとする。それを周囲の人が知ったら、一斉にその男性を非難するだろう。それは100%男性側の問題だと極めてシンプルに考えやすい。
しかし、問題の背後には常に表には出せない複雑な事情がある。奥さんが毎日のようにヒステリーを起こし、時には男性に暴力を振るっていたという事情があったらどうだろうか。そして男性はそれに対しじっと我慢してきたが故にもはや鬱状態にあったとしたら。
ではなぜその女性がヒステリーになったのかといえば、彼女自身が両親から度々暴力を受けながら育ってきたのが一つの原因とか、奥さんのご両親も実はそういう境遇で育ってきたとか、しかしながら男性側も根本的な解決を奥さんとしようとせずにずっと逃げ続けてきたとか色んな要素が出てきた場合、誰もが納得できる正解などどこにも無いし、シンプルで即効性のある解決策はおそらくない。しかし、現実とはそういうものだ。
Webという世界は、そういった事実を極めて忘れてやすいように出来ていると思う。
認識されない大切なもののゆくえ
こうして考えると、グローバルな次元では「テクノロジーの負の側面からの人間性の回復」や「資本主義の原則に抗える環境問題の解決方法」などは現在のところお金にもならず即効性もなさそうだが大切というカテゴリーに入りそうだ。今後ビジネスでうまく回る可能性があるとはいえ。
個人単位でも、「生涯にわたる親友の作り方」や「夫婦円満の本質的な秘訣」など、おそらく自分自身が何年も確実に時間をかけて成長しなければできないような内容は該当するかもしれない。そういう結果がすぐに出ない内容は学校では教えてくれないのだ。
お金は大事だし、すぐに結果が出るというのは重要な観点だが、そこに焦点が当たりすぎていることにはこれからも注視していきたい。
21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考 Kindle版
参考・引用
(1)ユヴァル・ノア・ハラリ『21 Lessons –21世紀の人類のための21の思考』河出書房新社、2019年
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